70年代日本のロッカーが「日本のロック論争」を終わらせたやりかた | KGGのブログ

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https://www.theguardian.com/music/2024/mar/26/translation-changes-the-original-meaning-how-70s-psych-rockers-happy-end-ended-the-japanese-rock-controversy

 

「翻訳は元の意味を変える」:70年代サイケロッカー『はっぴいえんど』はいかにして「日本のロック論争」に終止符を打ったのか

パトリック・サン・ミッシェル

― 1969年、松本隆と細野晴臣は英語ではなく日本語で歌うことでロックのトレンドに逆らうことを選択し、「シティポップ」とJポップへの道を切り開いた ―

2024 年 3 月 26 日火曜日 15.40 GMT

 

 

 松本隆と細野晴臣は1969年にロックバンドを結成する際、歌詞を当時の共通語である英語で歌うべきか、それとも日本語で歌うべきかという選択を迫られた。 議論の末、二人は母国語を選択し、国の音楽の流れを完全に変えた。

 

 彼らのグループ『はっぴいえんど』ギタリストの鈴木茂とギタリスト/ボーカリストの大滝詠一もメンバーとして参加しており、西洋風のフォークロックと日本のボーカルを融合させた。この決断は、インターネットに普及した 80 年代の「シティ ポップ」ファンクから現代の J-ポップ に至るまで、あらゆるものに影響を与えた。「私の母国語は日本語である。 翻訳すると、フィルターを追加するようなものである」と、東京のダウンタウンを見下ろす会議室から 74 歳の松本が説明する。 「本来の意味が変わってしまう。 そうすれば、それはもう私の本能や言葉ではなくなる。」

 

 1970 年から 1973 年にかけて、『はっぴいえんど』は 3 枚のアルバムをリリースし、最近すべてレコードで復刻された。 しかし、このカルテットが与えた影響は数十年にわたって続いた。 国内の批評家は当初からバンドの作品を高く評価し、1971年の『風街ロマン』は傑作として称賛された。 今でも日本のベストアルバムのトップに常にランクインしている。 「当時のミュージシャンはクリームやジミ・ヘンドリックスなどに憧れていた。 誰もがそれをコピーし、互いに競い合った」と、シンセポップグループのイエローマジックオーケストラでさらに有名になった細野は言う。 「私はそのシーンで育ってきたが、『はっぴいえんど』では、自分たちの言葉を使ってオリジナルなものを作ることにした。」

 

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ある日、大滝は細野に電話して「バッファロー・スプリングフィールドの良さがやっとわかった」と言った。

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 『はっぴいえんど』は、松本と細野が演奏していたバンド、エイプリルフールから誕生した。彼らのサイケロックサウンドは、ビートルズやモンキーズのサウンドを再現するグループが多数を占めていた当時、彼らを際立たせるのに役立ったが、エイプリルフールの歌詞は依然として英語で歌われていた。松本が日本語で書いた2部構成の曲「The Lost Mother Land」を除いて。先の曲は、彼の故郷である東京の急速に変化する状況と、それに伴って失われたすべてのものについて歌っている。

 

 「1964年の東京オリンピックは大きく変わった」と松本は言う。 「東京の周りを流れていた川は埋め立てられ、高速道路や高速道路が建設された。 かつてはこの地域に沿って路面電車が走っていたが、道路のために取り壊さなければならなかった。 その建設によって状況は一変した。 空が遮られてしまい、もう本当に見ることができない。」

 

 エイプリルフールは、歌手の小坂忠がミュージカル『ヘア』の日本版で役を獲得したことを受けて幕を閉じた。 その時点で、松本は細野とともにバッファロー・スプリングフィールド、グレイトフル・デッド、モビー・グレープといった西海岸のロック・アーティストに興味を持ち始めており、そのシーンにインスピレーションを受けて新しいグループを作りたいと考えていたと語った。 細野はビートルズと協会にメロディックなエッジをもたらしたボーカリスト兼ギタリストの大滝を採用した。 「ある日、大滝が細野に電話して、『やっとバッファロー・スプリングフィールドの良さが分かった』と言った。その時、全員の気持ちが一致した瞬間であった」と松本は笑いながら語る。

 

 ギタリストの鈴木がラインナップを締めくくった。 「大人たちに抑えつけられることなく、自分たちの思いを正直に、熱く表現した。 私たちは『純粋』だった。それが私たちを表す言葉だ」と、『はっぴいえんど』が1970年代初頭の東京のロックシーンにどのようにフィットしたかを尋ねられたとき、鈴木はこう語った。

 

 彼らのセルフタイトルのデビュー作は、ハードエッジなサウンドと日本のサウンドの組み合わせで批評家に感銘を与え、日本ロック論叢、つまり英語で歌わなければロック音楽が本物であることが可能かどうかを中心に展開する「日本のロック論争」を激化させた。そこで、『はっぴいえんど』はセカンドアルバムのためにスタジオに戻り、日本のロックが絶対に繁栄できるという点を強調しようとした。 「私たちは自分たちの強みを微調整し、どのような方向に進みたいのかを把握し、それを掘り下げた」と松本は言う。

 

 その結果生まれたアルバム『風街ロマン』は、より自信に満ちた『はっぴいえんど』を定義するものとなった。 松本の歌詞は、とても懐かしかったオリンピック前の東京に焦点を当て、より詳細に豊かになった。 しかし、最も強力な要素は、バンドが緊密に調和して連携しているという感覚である。 松本はアルバムの最も有名な曲「風をあつめて」(これは、ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』で取り上げられ、バンドをより幅広い世界の聴衆に紹介した曲)を例として挙げ、次のように述べている。「まるでお互いにキャッチボールをしているようだった。歌詞を変えよう、メロディーを変えよう、とブラッシュアップし続けた。」

 

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新幹線に乗っていると、細野が新しいバンド名をメモしているのが見えた。 私はショックを受けた

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 『はっぴいえんど』が商業的な成功を収めたのはずっと後だったが、『風街ロマン』が批評家や芸術界に感銘を与え、「日本のロック論争」は沈静化した。「素晴らしいと思う。普遍的に素晴らしいと思う」と松本は笑いながら言う。 「私たちはできる限りのことはやったと思っていたので、その後はもっとソロ活動をするなど、さまざまなことに挑戦したいと思った。 私たちはあまり一緒に時間を過ごさなかった。 それは残念である。」 彼はふざけて次のように付け加えた。「細野は単に新しいバンドを作るのが好きなのかもしれない。 一度だけショックを受けた。僕らは新幹線に乗っていたが、彼が新しいバンド名をメモしているのを見た。」

 

 『はっぴいえんど』は、ロサンゼルスのサンセットサウンドスタジオで、デビュー作と同じ『はっぴいえんど』というタイトルのもう1枚のアルバムをレコーディングすることになるが、全員が別のことに集中していたのは明らかだった、と松本は言う。 「誰もが自分のキャリアの次のステップについて考えていた。それがアルバムからはっきりと伝わってくる」と彼は言う。 「それはまったく悪いことではなかった、それは自然なことであった。」

 

 鈴木はその後も豊かなソロキャリアを積むことになる。 大滝はポップアーティスト兼プロデューサーとして愛され、2013年に亡くなるまで作品をリリースし、松本は日本で最も有名な作詞家の一人となり、大物ポップアーティストと仕事をした。 細野はあらゆることを少しずつやった。 今年後半には、彼の作品をカバーするマック・デマルコなどのアーティストとのコンピレーションが彼のソロデビュー50周年を記念する予定で、76歳となった現在も創作活動を続けており、近いうちに新しいソロコレクションの制作を開始したいと述べている。

 

 一方、『はっぴいえんど』の遺産は、21 世紀になってさらに顕著になっているように感じられる。 「以前は、新しい音楽はすべてまず米国を経由し、その後で入手する必要があった」と松本は言う。 「でも今は、インターネットや Spotify のおかげで、どこの国からでも楽しくて興味深い音楽を見つけることができる。」 現代音楽はグローバルであり、もはや特定の場所や方言に支配されているわけではない。 『はっぴいえんど』は、日本語の力を主張したが、より一般的には、自分の考えをシンプルに表現することの重要性が最も適切であると主張した。 「自分の気持ちを最も快適に表現できる言語で話すべきだと私は信じている。 それは日本だけでなく、世界のどの国にも当てはまる」と松本は言う。 「フィルターはない。」

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仮訳終わり

 

 

 

「『はっぴいえんど』」とはつぎのとおり

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 『はっぴいえんど』 (英語: HAPPY END) は、1970年代前半に活動した日本のロックバンド。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された。日本語ロック史の草創期に活動したグループの一つ。

 

概要

 バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を駆使した歌詞をつくり、大瀧詠一と細野晴臣が曲にのせる事で日本語ロックを構築した。第2回全日本フォークジャンボリー、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。

 松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し「この曲がなければ『はっぴいえんど』はなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている。

 細野は、メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観がバンドの音楽性にも影響を与えていると述べている。

 サウンド面においては、アメリカのバッファロー・スプリングフィールドなどの影響を受けていた。もっとも1960年代末から1970年代初頭には、日本でもすでにハードロックやプログレッシブ・ロックが注目されていたが、1970年の洋楽専門雑誌では特集で彼らが回顧されていた。しかし、ブリティッシュロックが人気だった当時の日本でフォークソングやフォークロックの音楽性を標榜したのは、「日本のロック」を作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったためで、また細野がアメリカ音楽の影響を強く受けていたこともある。当初、大瀧詠一と細野晴臣は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞を付けるという松本の提案に反対した。

 『はっぴいえんど』が取った方向性やその音楽性は、後に続く日本のロックバンドに大きな影響を与え、乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンス等の後継者を生んだ。また松本が長らく作詞を担当した松田聖子の曲は大瀧・細野・鈴木が作曲した曲が数多くあり、『はっぴいえんど』の方向性や音楽性は松田にも受け継がれている。

 遠藤賢司、岡林信康、加川良、高田渡、小坂忠らのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音等を行っている。

 代表曲の「風をあつめて」は、2003年のアメリカ映画『ロスト・イン・トランスレーション』と2009年の日本映画『おと・な・り』の他、漫画『うみべの女の子』でそれぞれ取り上げられた。

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引用一部 一部改変(行頭一文字空け、文献番号削除)