6月30日(火)

今日で2020年の半分が終わるということになるんだ。「新型コロナの年」ということか。

そのコロナの年に(最近コロナと関係のないものの方が少ないけど) 27日の土曜日だけど、

朝日新聞 オピニオンフォーラム 佐伯啓思氏 「死生観への郷愁」 という一文が心にとまった。煽ったり、非難したりと言った系列のものでなく、物事の根本を静かに、沈思に考えてみようという一文だ。 (不勉強な私は佐伯圭思についてほとんどしらない)

 

コロナの感染率は 首都 東京だけ見ても0.02%以下、一方インフルエンザによる直接間接の死綾数は年間1万人感染数は1200万人を超えている。これだけ見れば、コロナなどめったに感染することはないという確率である。  しかしこれはあくまで統計数字の話と続くのであるが、( わたしはこの統計数字を判断の根拠に使いたがる方である)

この評論文は、コロナの未知の怖さに触れ、今までのインフルエンザに見られなかった病気の経過から、人々が生きるか死ぬか恐怖、見えない敵への不安にさらされているのだと。

古代から長い間、悪霊の祟り、世の定めとして神を祀り、祭りをして、この不条理を、仏教的な無常を受け入れることによって、いわば、こころのよりどころにしていた、と。

そんな時代が去って、17C 英のトマス・ホッブス 国家論 により

今日、我々の生命安全に対して責任を持つのは国家なのだ、と。

それが国民との契約なのだと。 生命の危険にさらされそうになれば、国家は私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力的権力を持ちうるのが近代国家の論理。

ここまで読んで、「緊急事態宣言」 なるものが人々の間で、待たれた、皆が納得したことが、おぼろげながら理解できた。 人々は政府はもっと強力な権力を発揮することを望むのか?

筆者は、「古人のあの人間の死という必然への諦念を含んだ「無常感」が懐かしく感じられる。古人は人間を超えた何者かに対する怖れも、畏れももっていた。……

われわれも心のどこかに多少は古人の死生観を受け継ぐ場所をもっておいてもよいのではなかろうか。

私がこの筆者の言わんとしていることをどこまで理解しているか自信があるとは言い難いが、

現在の混乱を立ち止まらせてくれる一文のように思った。