第414話


こんにちは
菊水千鳳です


 東京 六本木のサントリー美術館で今月11日まで開催されていた
《京都・醍醐寺 真言密教の宇宙》に行く前に、少し時間があったので近くの神社に寄ろうか?と話が出ました。

地図を見ると近くに《乃木神社》がヒットしたので、SさんとC君と共に《乃木神社》にお伺いすることにしました。
3人とも初参拝でした。

俺の方が先に現地に到着したので、近くのコンビニ内のイートインで軽く腹ごしらえをしていました。

すると…  
早速 乃木神社から気配がやって来ました。
御祭神である乃木希典(のぎまれすけ)将軍 他、数名の方々がいらっしゃいました。

俺の気配察知が正しいならば、
乃木希典将軍や他のどなたかがいらっしゃるはずだ…
と思い、
『どなたか存じかねますが今からそちらに向かいます』 
と挨拶をし、コンビニを出ました。


乃木神社で二人と合流し、いざ境内へ…

中に入ると直ぐに声が聴こえてきました。


【 過ぎゆくもの
ㅤㅤ忘れからずや】


過去を忘れないでほしいって意味のように受け止めました。

この声の主は、先のコンビニでご挨拶した
《乃木希典将軍》(以下、乃木将軍と書きます)でした。


拝殿に到着する前なのに
既に話しかけてきました。

 

乃木将軍

【 私は(未だ)神とも仏とも違うぞ

されど ここに
静かにたたずんでいる】
(自慢げに仰いました)


拝殿前で柏手を打ちました。
御賽銭箱の向こう側に
乃木将軍が立っていました。
写真のまんまの軍服姿です。

他に数名の方々(奥様と部下たち)の気配がしました。


『混沌とした世界情勢の中、日本国の未来のこと、よろしくお願いします』

俺は偉大な軍人からのお言葉を、
耳に入れても痛くないほどの
素晴らしい返事を期待していました。


  が……



乃木将軍

【 ワシも先は知らん 】


『へ?』  

ぷっ (*≧艸≦) 笑


先の未来は分からんてことかいな(笑)
意外にのんきなのね…
思わず一人でズッコケてしまいました。

参拝が済むと、C君が拝殿の左側の方に1人で歩き出しました。

ついて行ってみると、そこには

ㅤ“ 雷 神 木 ”  が…

参道は整備されていましたが、
回廊の陰になっていて、そこに御神木があるのは気が付きませんでした。
 
『参拝が済んだ途端、左腕をグイッと引っ張られたんだよ』とC君。
C君は声を聴く代わりに、グイッと引っ張られたことで、御祭神との接触が成されたようです。

C君は京都の上賀茂神社の御祭神 賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)だったり、なんでか雷の神様に好かれているようで…


こちらがその御神木です🌳



霊視すると⚡
植物のカミナリ様バージョンで、
バリバリバリ…と
真っ直ぐ降りてくる感じ、
とても力強い木の長(おさ)のような感じでした。

芯がとても強く、雷のように曲がりのない真っ直ぐなエネルギーでした。
貫き通す、男性的な力強さを大地に流していました。

境内のエネルギーの源の一つかもしれません。
境内は落ち着いていて、邪気を寄せ付けない力を感じました。


続いて、ナンダモンダ(球状閃緑岩)というユニークな名前の石を見つけました。 

調べてみたら、
江戸時代に発見された石だけれども、名前が分からなかったから
ナンダモンダと呼んだらしいです(笑)


更に詳しく調べてみました。
   ↓
球状閃緑岩(きゅうじょうせんりょくがん)は,卵のような球体が岩石中に形成されたもので,岩石表面が風化すると菊の花びらのように見えるため,菊面石とも呼ばれています。
岩石学的には,小さな粒を核として成長した球体、または楕円体の縞状の構造を指します。
縞状構造は,鉱物組成が異なる皮膜状の岩石が次々と外側に成長することによって形成されます。

触って良いのかどうか、(触らないでと明示されていませんでしたので^^;) 意を決して この石に触れてみました。 

 

ナンダモンダ
 
【 この歪(いびつ)な模様が
私の特徴でもある

事静かに耳を貸さば
命の意思の鼓動が聴けるだろう

事静かに触れるとき
力溢れる源を手に入れる

力ある石
せいもん(正門)の前で鎮座する

この大地を見守る石】


石の意識が聴けました!(笑)
石のエネルギーが大地に根付いていました。

俺はもうちょい、拝殿前にたたずんでみました。
その間、C君とSさんは奥の境内摂社へと先に向かいました。



拝殿前で、改めて

乃木将軍

【 よく来たな
わしの(姿)がよう視えるやろ?

微塵も姿を感じないのなら
それまでだが…

大地に根付いてるから
ここ(=境内)は安泰(あんたい)じゃ】


どうやら、六本木周辺は所々ダークスポット的な場所があるようですが、ここは大丈夫だ、ということのようです。


2人を追いかけて、境内摂社
《正松神社(せいしょう)神社》へと向かいました。


御祭神は
《玉木文之進(たまきぶんのしん)》
《吉田松陰(よしだしょういん)》
 

社の前でC君が
『事が良き方に運びますように…』
とお願いしたら



御祭神(玉木文之進) 

【 はからいましょう 】と。


C君の体感では、
学問の神様っていうよりは、自分が願った事に対して、成功に向かっていく過程を後押ししてくれる感じがしたそう。

俺がキャッチした体感では、
物事を手順よく進むように手助けしてくれる。しかし、ただ黙ってお願いしただけではダメで、そのお願い事に到達するための努力がないと後押ししてもらえない。

似てるっちゃ似てますね


C君に 
玉木文之進さん 

【 ぜひ長州にもいらしてください

ここは神社ですけど
観光地化しているので
本場にいらしてください】

と話していました。


俺はC君のあと、柏手を打ちました。
御祭神の2柱は、しっかりといらっしゃいました。
隣り同士で並んで現れてくださいました。


調べてみました。
   ↓
長州(ちょうしゅう)とは
国名-日本古代の令制国である長門国の別称。山口県の西半分。
長州 (地域名) - 長州藩の行政地域全体を意味する雅称。長門国と周防国、現在の山口県。 


玉木文之進さまと吉田松陰さまに向かい、お願い事をしてみました。

『このメンバーで、日本全国の神社仏閣を好きなときに好きなだけ参拝したりできるように取り計らいを宜しくお願いします。』



玉木文之進さま 

【 どこに行くにも
(神社仏閣に)押し掛けるのじゃな?
その願い叶うことなる

ㅤ願え 願って待ち備えよ

しっかり見つめ
与(よ)も奉仕しようぞ 】

こちらの2柱の御祭神と
乃木将軍との関係は、
玉木文之進は 松陰の叔父であり、
吉田松陰と乃木将軍は、叔父の玉木家を介して親戚関係にありました。
玉木文之進の養子に、乃木希典の弟がなっているからです。
それだけでなく、乃木将軍も、
玉木文之進の弟子でしたので、松陰と乃木将軍は相弟子(あいでし)でもあります。

こちらでは
乃木将軍が生前、二人を尊敬していたから祀られてるようです。
 


次に宝物殿に入りました。

乃木将軍の銅像がありました。


試しに触れてみたら、乃木将軍の声が聴こえてきました😲



乃木将軍

【 フフッㅤ
(話をする) 出番がまた来たな】
 

先ほど、日本の未来に関して
【先の事は知らん】と乃木将軍は素っ気ない返事をされましたが、それに対し、


乃木将軍

【(ワシの) 任務は果たすぞ 
心配するな
(知らんと言ったが)冷たく思うな

世界じゃ 
世界に目を向ければ
(未来が)分かる】 

とメッセージを付け加えてくださいました。

日本の未来は世界の同行を見れば分かるってことか…。
確かにそうだと思います。


行きと帰りに、手水舎の近くの
カッコいい狛犬を褒めていたら
帰り際、


狛犬 

【 かわいい鞠(まり)は 持ってない】

と ポソッと喋ってきました。
よく見ると、あらあらホントだ!
鞠は見当たりませんでした。
(鞠を持っている狛犬が各神社で結構見受けられます)


時間の関係上、境内社の一つ、 《赤坂王子稲荷神社》 へ立ち寄らずに、目の前でご挨拶だけしました。


⭐⭐⭐

最後に御祭神である
  乃木大将
  吉田松陰
  玉木文之進
を簡単に調べた内容をご紹介しておきます。

⭐乃木大将
乃木希典(のぎまれすけ)
1849-1912 
陸軍大将としての実績の他、教育者としても名高い人物。
日露戦争では、旅順攻囲戦でロシアの永久要塞といわれた旅順要塞を攻略。
その実績から日本海軍の東郷平八郎と共に「陸の乃木 海の東郷」(「陸の大山 海の東郷」とも)と称され讃えられた。

乃木夫妻はこの日露戦争で2人の息子を戦死にて亡くしており、国民も大いに同情した。旅順要塞を陥落させた後の水師営の会見では、明治天皇より、敵国の要塞司令官ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え武人としての名誉を確保するよう命じられる。

これを受けて、乃木は、ステッセリやロシア兵に対し極めて紳士的に接した。
この、乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され、武功のみならず、降伏した敵国ロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、世界的に評価された。
明治四十年(1907)、明治天皇による勅命で乃木は学習院院長を兼任する事になる。
これは、明治天皇の皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学する事から、後の昭和天皇の養育係を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に直々に指名した事による事から。

また、明治天皇は乃木に対し、自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれている。
明治天皇からの乃木将軍への厚い信頼と人徳を伺うことができる逸話だろう。

学習院委員長になってからは、乃木式教育といわれ生活の細部に渡って指導に努めた。
乃木は、質素と謹厳の代名詞とも呼ばれ、人格は多くの生徒から尊敬を集める。
翌年、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学。
乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力。
昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ。
昭和天皇の教育係を務めた人物と言える事ができるだろう。
 
明治四十五年(1912)七月三十日、明治天皇が崩御。
大正元年(1912年)九月十三日に、明治天皇の大葬が行われる。
大葬当日、乃木夫妻は礼装に身を固めて記念写真を撮っている。
同日、午後8時頃、乃木は妻の静子と共に自刃して亡くなった。
いくつかの遺書、辞世を残しており、明治天皇の後を追い殉死したと見られている。

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しんだという。
迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついたとされる。
なお、夏目漱石の小説「こゝろ」は、漱石が乃木希典の殉死に影響を受け執筆した作品である。
乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912)九月十八日に行われた。
葬儀には十数万の国民が自発的に参列。
その様子から「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、多くの外国人も多数参列した事から「世界葬」とも表現された。
 

⭐玉木文之進
1810~1876
長州藩士。杉七兵衛の三男で、のち玉木家を継いだ。吉田松陰(しょういん)の父 杉百合之助(ゆりのすけ)の弟。
1842年(天保13)に松下村塾(しょうかそんじゅく)をおこし、吉田松陰、杉民治、宍戸(ししどたまき)らを教育した。その後、藩校明倫館の都講となり、さらに諸郡の代官を歴任して民政にも力を尽くした。隠居後、松下村塾を再興して教育に従事したが、76年(明治9)の前原一誠(いっせい)の乱に一族および子弟の加わったことに責任を感じて自刃した。[吉本一雄]


⭐吉田松陰(よしだしょういん)
1830~1859
幕末の武士、思想家、教育者。
文政13年8月4日生まれ。
杉百合之助(ゆりのすけ)の次男。
杉民治の弟。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。
山鹿(やまが)流兵学師範の叔父(おじ)吉田大助の仮養子となり、兵学と経学を学ぶ。
9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。嘉永(かえい)3年から諸国を遊学して会沢正志斎、安積艮斎(あさか ごんさい)らに従学。
6年から佐久間象山(しょうざん)に砲術、蘭学をまなぶ。
7年 下田沖のアメリカ軍艦で密航をはかるが失敗。幽閉された生家に,安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき、高杉晋作、伊藤博文らに教えるが、安政の大獄で6年10月27日刑死した。30歳。




乃木神社 ~完~