第235話


こんにちは 

菊水 千鳳です

    今回は崇徳天皇さまが
何故、怨霊となってしまったのか
ご存知の方も多いと思いますが、
その謎に迫るため
生い立ち、並びに生涯について
サクッと紹介します。  



**この内容は霊視によるものではまだありません。
なので、将来的に霊視した場合の結果とは多少異なる内容であるかと思います。
ご了承下さい。**

将来的に霊視する場合は、崇徳天皇さまご本人に、お越ししていただいて伺う場合もあると思います。 

崇徳天皇さまからの直接のメッセージは
『崇徳天皇さま日記  その1。その2。その4(近日中に掲載予定)』にあります。


まず最初に、歴史に触れるので
即位の順と院政について、
先に書いておきます。


◇◆◇ 即位の順 ◇◆◇

白河(しらかわ)天皇→
堀河(ほりかわ)天皇→
鳥羽(とば)天皇→
崇徳(すとく)天皇→
近衛(このえ)天皇→
後白河(ごしらかわ)天皇 です。


ㅤ白河天皇は14年間 天皇として在位した後、幼少の 堀河 (ほりかわ) 天皇に位を渡し、自らは上皇 (じょうこう) となって政治を行いました。


このスタイルを院政 (いんせい) と呼びます。


白河天皇は、堀河天皇が成人してからも政治を続け、孫の鳥羽天皇、ひ孫?の崇徳天皇と3代に渡り、43年間もの間、院政を行いました。


天皇と違い、 上皇の立場からなら公的に縛られずに、私的な身分として武士などと主従関係を結んだり、武士を個人的な家臣として職や土地を与える代わりに仕事をしてもらうなど、オールマイティーな分野で天皇を支えることができたようです。



ここからは、崇徳天皇の生い立ちです↓


ㅤ1119年、鳥羽天皇に待望の第一子が生まれます。

顕仁親王、後の崇徳天皇です。
しかし鳥羽天皇は喜んではいません。

「顕仁親王の母・待賢門院璋子 (たいけんもんいんしょうし) は、羽天皇に嫁ぐ前から鳥羽天皇の祖父に当たる白河法王(=上皇)と密通の関係を持っていました。

それは鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。
その結果、璋子は顕仁親王を身ごもったのでした。


祖父の子として公然の秘密でした。


祖父の子は叔父になるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と言って嫌っていました。

白河法皇も、顕仁親王が自分の子であることを知っており、重宝します。


ㅤ1123年、白河法皇は21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、わずか5歳の顕仁親王を、崇徳天皇として即位させました。

そして、崇徳天皇即位後も
白河法皇が権力を維持しますが、1129年、白河法皇が崩御します(=亡くなります)。

ここへ来て鳥羽上皇の復讐が始まります。


ㅤ鳥羽上皇は、白河法皇サイドだった人々を左遷し、白河法皇から遠ざけられていた人々を復権させます。

続いて、寵愛していた美福門院得子 (びふくもんいんとくし) の生んだ3歳の体仁親王 (なりひとしんのう) を養子にするよう、崇徳天皇にすすめます。

その上で体仁親王を天皇に立て、院政を行うよう打診します。


これは鳥羽上皇によるでした。


崇徳天皇は、思いました、
【この子を養子にし、我が子として天皇に立てれば、天皇の父として私は院政が行なえるではないか、なるほど。

有り難い話だ。
父上 (=鳥羽上皇を父と思っている) は、やはり私のことを良く考えてくださり、思ってくださっているのだなぁ、嬉しい限り】と。

崇徳天皇は父 鳥羽上皇の助言を受け入れ、体仁親王を養子にして、体仁親王に譲位しました。
近衛天皇の誕生です。 


しかし、近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていました。

崇徳は「子」ではなく「弟」に譲位したことになるのでした。


院政とは一言で言うと、天皇の父または祖父が現役天皇にかわって政治を行うことであり、「弟」への譲位では院政を行なうことが不可能。


崇徳はこうして政治に関与できなくなりました。

まんまと鳥羽上皇に騙されたのです


しかし、まだ望みはありました。
近衛天皇はわずかに3歳。
早世(=早死)する可能性もあるし、そのうち鳥羽上皇が崩御することも。

なので、まだ院政を行う望みが完全に絶たれたわけではありません。



14年後、ついにその機会がやってきます。


1155年、近衛天皇が17歳で早世。


近衛天皇には跡取りがいませんでした。


崇徳は躍起になりました、

【これで我が子、重仁が即位すれば晴れて天皇の父として院政を行えるはずだ!】と。


しかし鳥羽上皇は、崇徳の弟にあたる 雅仁親王を強引に帝位につけてしまいます。

これにより、遂に崇徳の院政への望みは完全に断ち切られました。

【何としても崇徳に帝位を渡すまい!】と鳥羽上皇は終始徹底したのです。


1156年7月2日、鳥羽上皇が崩御します。

崇徳は知らせを受けてすぐに鳥羽殿へ走っていきます。

生涯自分のことを嫌ってきた父ですが、そんな父でも慕うのは人情。

父の亡骸にせめて最後の別れのご挨拶をするためです。



ところが生前、鳥羽上皇は
崇徳に自分の死に顔を見せるなと遺言していたので、父親の葬儀に顔を出すことさえ叶わなかったのでした。

最後まで父に完璧に嫌われていたのです。

このあとも、崇徳の不運は続きます。

後白河天皇サイドの崇徳サイドへの執拗な陰謀や挑発が始まります。

結果、崇徳方 対 後白河天皇方との争い
【保元の乱】が勃発。


しかし、夜討ち(夜襲)にあい、
一夜にして崇徳方は敗北。


崇徳は讃岐へ流されてしまいます

流刑先の讃岐で、崇徳は写経をする事で自身の慰めを見つけました。


戦死者達の弔いの忌みも深く込めながら、3年かけて五部大乗経を書き写し、父の御陵のある安楽寿院か石清水八幡宮に奉納してもらいたく、都へ写経を送ります。 

しかし 後白河側は、罪人の書を都に入れるのは不吉、呪いがこめられているかもしれない、との思惑から崇徳のもとへ送り返してしまいます。

3年かけた五部大乗経が都に納められないとなって、崇徳上皇は遂に事切れ、叫びます。

【 おのれ!そこまで我を毛嫌いするか!!  ならば我は日本国の大魔縁となって皇を取って民となし、民を皇となさん 】

(日本国の大魔王となって天皇をつかまえて民衆の地位に落とし、民衆を天皇の地位につけてやる)と。


そして舌を食いちぎって
五部大乗経に呪いの血文字を書き記したとも言われています。

一説によれば海に投げ込んだとも。


崇徳上皇は髪も爪も伸ばし放題で天狗のような姿になっていきます。


1164年、崇徳天皇は
まもなく46歳で崩御します。


その御遺体は白峯山 (しらみねさん) の白峯陵 (しらみねのみささぎ) に葬られます。


この後の様々な出来事が崇徳天皇の怨霊によるものとして恐れられていきます。


崇徳の崩御後、実際に武士(=民)が天皇に代わり実権を握ります。

崇徳天皇が崩御してから100年毎に大きな災いが起こります。


時は流れ、江戸末期に起きた
戊辰戦争で、崇徳天皇の怨霊が幕府側に味方しないようにと、
明治天皇は崇徳天皇の魂を讃岐からお迎えして京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設されました。

都へ帰ることを願いながら亡くなった崇徳天皇の、700年ぶりの帰京となりました。


崇徳天皇没後、何故 日本最大の怨霊と言われていたのか、実際にどのような災いが襲ったのかについてはここでは割愛します。

おしまい

サクッと書いたつもりですが、長くなりました(;´Д`A ```
崇徳天皇さまの生涯、お分かりいただけましたでしょうか。



ㅤ次回は、京都の【白峯神宮】に
参拝した際の崇徳天皇さまから頂いたメッセージ内容を投稿します。

続く