1月2日月曜日〜その10




P168〜169の佐原一哉さんが書いた「激動の1991年を体験した、一人のミュージシャンとして」を読む。




(写真)佐原一哉さん、通称 会長は、河内家菊水丸&エスノリズムオールスターズのリーダーで、レゲエと河内音頭、スカと河内音頭を融合させた功績者です。S58年夏から活動を共にして、H2年の12月23日、京都ブライトンホテルでのステージでエスノリズムオールスターズの活動は終焉を迎えることになりますが、そのきっかけはS60年8月26日、河内音頭の自称評論家 持田寿一が寝屋川市大池町の盆踊りで桜川唯丸との共演の話を持ってきた事に端を発します。写真は其の当日のもの。私がレゲエ河内音頭を歌って、桜川唯丸の江州音頭もエスノリズムが演奏して盛り上がりましたが、その場限りと思っていたら、気がつけば唯丸のバックをエスノリズムが務めるようになっていたのです。唯丸から私への挨拶はなく、バンドも当たり前のように向こうへ行ったその直後、H3年1月にリクルート・フロムエーのCMソングの依頼が届き、バックバンドの必要がないコンピューター音楽での歌唱企画に飛び乗りました。東京都内でのCM認知度が98・5パーセントを記録した頃に、中村とうようさんから第1回WOMAD横浜へのオファーを頂くも、共演者リストに桜川唯丸の名前が有り、出演辞退をした事は昨日のブログに綴った通りです。今日、佐原さんの文章を読み、さまざまな音楽との出会いの中で、河内音頭から江州音頭へ移ったことが判りました。ミュージシャンの世界はそういうものかも知れませんが、芸人の世界では桜川唯丸と持田寿一の振る舞いは、人の座敷を土足で踏み荒らすような筋の通らぬ行為だったと思っています。