5月31日月曜日~その9




EP盤『明石家さんま物語/河内音頭でぶっとばせ』河内家菊水丸(S62年7月21日テイチクレコード)を聴く。




(写真)新聞詠みの題材として、吉本興業の先輩 明石家さんま兄さんの物語を創作しました。


(写真)カセットテープも同時発売。此の作品の発売に至る経緯は、伊丹空港から大阪市内へ向かうエアポートバスの中で、若手河内音頭取りとして、私が特集された雑誌の記事をテイチクの中田信也ディレクターが読まれて、連絡を下さったのがきっかけです。門真市古川橋のご自宅へご招待に預り、2階で冷やしうどんをご馳走になりながら、テイチクレコードへのお誘いを頂きました。S62年5月9日、11時にテイチク大阪営業所へ伺いますと、竹本と名乗る部長が登場。鉄砲光三郎師より私に対して「彼の歌っているのは鉄砲節だ」とのクレームがついたとのこと。私は「全く違う」と抵抗。竹本某は「私が鉄砲さんと話をつけるから、他社との契約がないなら、ぜひうちへ来て欲しい」と胸を張って言ったのです。後日、作曲は民謡にするとの折衷案が提示され、作品を発表したい一心で了承しました。ジャケットには、作詞と編曲は明記されていますが、作曲者の記載はなし。私は民謡扱いと信じていましたが、JASRACには作曲 鉄砲小弥太※鉄砲光三郎筆名で登録されていたのです。そのことを知るのは、H14年10月23日にテイチクから発売されたコンピレーションアルバムを梅田のロフトで何気に手にして『明石家さんま物語』が収録されており「契約の上で再販が出来てもサンプルくらいは欲しいなぁ」とぼやいていると、ある方が「そんなアルバムが出たのか…」とパソコンで検索した時に、JASRACの楽曲登録を見て発覚したのです。昔は、わざわざ、東京のJASRACへ出掛けて行って、書類を閲覧せねば成らなかったのが、コンピューターの発達で簡単に検索できるようになろうとは、密約を結んだ竹本某と鉄砲師は想像もしなかったでしょう。私は腸が煮えくり返り、H15年8月7日、著作権の確認を求めて大阪地方裁判所に提訴しました。損害賠償金は0円。後世に残る裁判ゆえに、お金目当てではないとの証です。約1年の係争の末、裁判長からは、作曲 鉄砲光三郎・河内家菊水丸の連名での和解と云う提案が有り、原告・被告側ともに受諾。時は流れましたが、タイムマシーンがあって、24歳の私に戻れるとすれば、竹本某との面会の場へ「では、やめます」と言いに行くでしょう。

★外題・17
★小品・5
★まくら唄・9
★甚句・2
★カラオケ・2