8月21日水曜日~その3
21時50分外出。東大阪市荒本西ヘ向かう。奈良のコンビニでお買い物。リポビタンDを一気飲み。chip starを摘まむ。23時、玉泉院に到着。河内音頭取り 生駒一師匠の通夜ヘ伺う。会いたくない音頭取りとの遭遇を避けて、遅くの弔問とする。弟の生駒家一夫師匠、お子さん方と再会。遺影に手を合わせてお別れをする。高校3年生の私が、S55年8月中席 吉本興業 なんば花月で初舞台を踏めたのは、元浪曲師で河内音頭も歌った漫才の中山礼子師匠の推薦。其の礼子師と引き合わせて下さったのが生駒師。同じ年、コロムビアよりレコードデビューが出来たのも生駒師の取り計らい。17歳~19歳まで、生駒一座で太鼓を叩き、ギターを弾かせて頂き、プロ活動のいろはを学んだ。河内音頭取りとして、現在の私が成功例だとするなれば、そのフォーマットは生駒師のもの。それを土台に、取捨選択、改良したと言えましょう。生駒師との関わりがなければ、私の人生は大きく変わっていたかも知れません。
(写真)S55年7月、東大阪市上石切町 ホテルセイリュウ「河内音頭生活十周年記念 生駒一を励ます会」で、レコード発売直後の私が「お茶々づくし」を唄う。太鼓は生駒師。