7月14日火曜日~その1



寝る前のおやつは、泉ヶ丘福祉会の赤井園長が差し入れて下さったベビースター 天下一品 味かさね味、BALYET Toffee ALLSTAR。4時頃に眠る。



9時45分、目を覚ます。暫く微睡む。首のストレッチ。四股10回。体重68.5キロ。飲料は、カルシウムの多いミルク、野菜生活100 甘夏&レモン、緑茶。12時、昼食。あら川の桃、キウイ、明治プロビオヨーグルトR-1。HDDをチェック。宅配便を受け取る。



(写真)徳島県名東郡佐那河内村の原仁志村長が送って下さった名産のすだちです。



14時40分出発。村内GSで給油。郵便局に寄り、大阪市中央区西心斎橋へ向かう。道中、完全ヨード抜きおにぎりを頬張る。16時15分、アメリカ村に到着。正規代理店に愛車の点検を託して、スマイルステップビル6階のスタジオMAXに入る。昨年、復活した四天王寺の盆踊り大会。同時に、8年計画でスタートした八話完結のCD『不滅の光明 聖徳太子一代記※作詞・三条史郎』制作の第二弾「少年時代編」の収録を行う。



ーーー外題帖ーーー
幸せ願う善男善女
悩める人を温かく
導き下さる仏様
その御教えを説き示し世間の苦しみ救済わんと
貴き誓いを立てられて為された偉業の数々や太子の御心想いを馳せて
全編八話完結の
大長編の中よりも
聖徳太子の一代記

一【御生誕編要略】
今作までのあらましは釈尊涅槃に入られて
一千年の時を経て
二十九代天皇の
欽明帝の十三年
百済の国の聖明王より仏像・経典・幡・蓋に
上表文が添えられて
献上されたを契機となして
仏教崇拝賛成派
蘇我稲目と排仏派
物部尾輿対立し
欽明帝は公に
礼拝するのは見合わせて
稲目の私的な崇拝許す
その後欽明三十二年
蘇我稲目が病没し
飢餓疫病が国中に
蔓延したる原因は
稲目が仏像祀ったためと
尾輿をはじめ排仏派
稲目の建てた仏殿破壊難波の堀江に仏像廃棄しかし疫病治まらず
欽明帝も崩御する

同年豊日皇子様の
お后様の間人の
皇女様の夢枕
救世観世音大菩薩
現れ出でて皇女の
お口の中へ入られた
夢から覚めた皇女は
現に夢を観た心地
夢告に因って懐胎を知る

十月十日の日が経てどなんの兆しもないままに
一年が経ち翌年の
一月一日皇女は
宮中散策遊ばされ
厩の前に来られた時に俄に皇子ご出産
珠の様なる男の子
抱き参らせ寝殿へ
お連れするなら部屋中に
西方弥陀の浄土より
この世に降臨った菩薩の化身
皇子の生誕寿いで
紫雲棚引き七色の
瑞光が満ち奇瑞を見せる

敏達天皇二年の
皇子様二歳の春の日に目覚められたる黎明の茜に染まる東の空を
仰がれ皇子は紅葉の様な
御手を静かに合わせられ
唱えられたる南無仏
仏に帰依する御心を
奉唱以て示される

皇子様三つに成られた折りに
艶やかに咲く桃花より操の色を萬代に
伝え寿ぐ萬年樹
松の双葉を愛でられた
敏達天皇四年の或日
数多の皇子が集まって遊んでおられたその時に
言い争いが始まって
豊日皇子が一条の
鞭を持たれて庭先に
出られた時に王子達
逃げて行ったが唯一人諸肌脱いで跪き
畏まったる皇子様を
不審に思われ父宮は
訳を訊かれたその時に仮令一時は逃げ果せても
何れは捕らえられるので
それで私は初めから
逃げなかったと答えられ
自業自得の理を
未だ幼気な四歳の
厩戸皇子示された

敏達天皇五年に
敏達天皇皇后に
冊立された額田部の
皇女様に宮中で
謁見した際皇子様は
皇女様に奉拝し
将来姫が天皇と成り
その政権を皇子様と
蘇我馬子が補佐することを
予知し無言で予祝する
皇子様五歳に成られた折りに
文学学習志し
三年後には王羲之の
書を凌駕する上達見せる

敏達天皇六年に
百済国より渡来した
経典読破し御仏の
説かれた御教え学ばれて
深く真理を体得される
敏達天皇十年に
陸奥遙か日高見国
雲湧く如くの大軍勢
反乱軍が飛鳥の国に
襲来なして一触即発
この時敏達天皇は
群臣集め作戦会議
敵方蝦夷の軍勢を
殲滅せしめる戦略を
聴かれた皇子は天皇に敵方蝦夷に仁慈を以て禄を与える対策を
奏上するなら天皇も
賛同されて趣意を容れ蝦夷の首領に伝えれば欣こび大和の朝廷に
帰順の態度表して
軍を解いて帰り行く
敵でさえも包み込む
大きな慈愛を示されて敵や味方の多くの人の尊い命を救われた
蝦夷の飛鳥へ襲来に至る
前段・御生誕編に
続きましたる今作は
第二回なる少年時代
不肖河内家菊水丸が
河内音頭に乗せまして一所懸命努めましょう
二【宮中遊戯】
豐葦原中國
三十一代天皇の
用明帝の皇子様
厩戸皇子十一歳
時は敏達の天皇の
十一年の春半ば
御殿へ多くの童子を招き
技を競ったその折りに弓を執られて鷹の羽の矢を番えたる皇子様の望月の如く引き絞る
勇姿は恰も西海の
火の国・熊襲を平らげた
日本武尊の如き御姿
切って放てば誤たず
矢唸り上げて鵠を射りゃ
妙なる芳香辺りを包む力競べの相撲を取ればその雄々しさは古の
当麻蹴速を観る如し
走り給えば疾風迅雷
一度跳べば大空高く
御殿の屋根を大きく超える

全ての遊戯で目覚ましい
群を抜きたる才能発揮またそれのみか皇子様は
童子を集めた席上で
三十六名それぞれの
念いを一度に語らせる
叙述…この時、厩戸皇子様の前に集まった三十六名の子供達が、口々に自分の念いや願いを一斉に喋り始めました。皆の話に凝っと耳を傾けて居られた皇子様は、喧々囂々たる中、三十六名の童子達一人一人の念いを確りと理解し、子供達皆の念いを叶える一つの答えを導き出されました。子供達の声を聴いていると、人の念いや願いというものを突き詰めれば、大人も子供も同じではないか?それは物質的な豊かさだけでは決して満たされるものではなく、様々な不安や、悩み、苦しみから解放されることこそが、本当の意味の人間の幸せであるということに気付かれ、その為には御仏の教えを広めることが最も我が国の人々の為になることだと、決意を新たにされたのでした

宮中遊戯で皇子様は
無垢な童子の声を聴き皆の念いを受け止める包容力と的確な
指針を示す統率力で
我が国日本の未来の為に
唯一の尊い御仏の
教えを広める決意をされる

三【日羅来日】
敏達天皇十二年
亡き父欽明天皇の
悲願であった「任那復興」
朝鮮半島南部に在った大和皇室直轄の
領土回復政策として
現在は百済の高官で
達率と言う地位にまで昇った日羅を召喚せよと
敏達天皇詔
吉備羽嶋と紀押勝を
百済へ向けて派遣する
日羅の召喚要請に
百済の国の威徳王
当初難色示したが
再三再四の要請に
百済の正使恩率と
徳爾と余奴を副使に指名
同行させる条件で
日羅帰国の許可を出す
百済を発し日羅一行
対馬海峡・玄界灘を
越えて瀬戸内備前国は吉備屯倉に上陸し
大伴連糠手子の
出迎え受けて再び海路東へ向かい難波津へ
到着の後一行は
河内国は阿斗桑市
滞在したるその折りに任那復興善後策
敏達天皇諮問を受ける
この時日羅の献策は
大和朝廷内外の
直ちに任那奪還と言う強硬論に反対し
今暫くは国民挙げて
倹約重んじ国力増強
平和を保ち三年間の
猶予を以て充分な
軍備の強化を図った上で
新羅・百済に抑制かける
外交政策採るべきなりと
敏達天皇諮問に答え
軈て日羅の一行は
難波館へ居を移す

時を同じく厩戸皇子
日羅帰国の報せを聞かれ
天皇様に対面許可を
求めてみたが許されず皇子は単身身を窶し
粗末な衣服に縄の帯
馬飼の子に立ち交ざり飛鳥を後に西へ採り
二上山を右に観て
第十一代天皇の
垂仁帝の御時世に
当麻蹴速と野見宿禰
力競べをしたと言う
歴史が薫る葛城越えて磯長の郷から河内を通り
やって来たのは難波津の
日羅が滞在すると言う難波館の表方

物の陰より皇子様は
ソッと様子を窺えば
一人館の庭先に
佇む日羅はどうした訳か
ハッとばかりに振り向いて
馬飼の子に身を窶し
大勢子供の在る中に
物の陰より隙見する
所を指して駆け寄って何思いけんその場にサッと
跪くなり皇子様に

日羅「敬礼、救世観世音菩薩、傳燈東方粟散王」

唱えて日羅は合掌し
この方こそは東方の
日本の国に御仏の
尊い教えを広められ
遍く照らし民衆を
導き下さる法王と
感得なして皇子様の
御顔を仰ぎ観る
日羅の身体が燦然と
不思議な輝りに満たされる
同じく皇子様眉間よりまるで釈尊白毫相
目映いばかりの煌りを放つ

一方百済の使節達
日本の外交政策を
献策したる日羅の行動日本人であると雖も
現在は百済の高官で
達率にまで成った人
百済を裏切る許せぬ行為
日羅の暗殺企てて
徳爾と余奴に命令し
正使の恩率百済へ帰国命じられたる徳爾と余奴は
昼夜分かたず隙窺うも不思議な輝りが炎・の如く
日羅を包むを恐れてか空しく過ごす年の暮れ時は敏達の十二年
夜嵐荒ぶ大晦日
夜陰に乗じ予てより
隙を窺い付け狙い
日羅の輝りを失うを
契機となして兇刃揮う深手を負って虫の息
喘ぎながらも最期の力振り絞ったる一言は

日羅「私を襲ったのは、唆された無知な者のしたことで、決して百済や新羅の国王の意思ではない。呉々も事を荒立てて、戦の火種にしてはなりません」

日羅は最期の言葉を遺し
母国日本の土にと還る日羅の御霊は供養され小郡の地に埋葬される

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此処まで歌い終えて、一旦休憩。17時40分、スタジオを出でて、タクシーで道修町の今泉医院へ走る。直ぐに戻りて、1階 BURGER KINGでフィレオフィッシュバーガーとポテトを買う。