10月12日日曜日~その4



(写真提供・伊賀忍者整体癒の館)俳聖殿前で披露した、三条史郎・作「河内音頭 松尾芭蕉物語」。其の全文を掲載致します。




巡る月日も百代の
過客と詠じ自らも
観果てぬ夢の旅に生き旅に散りにし生涯は
千古不易の時の内
不断の生命見いだして変幻自在の妙句を尽くし
十七文字の文学に
打ち立てられた金字塔伊賀に生まれた俳聖は本年生誕三百と
七十年を記念して
此処に河内家菊水丸が音頭で綴る一幕は
松尾芭蕉の物語
一所懸命努めましょう


元禄二年三月弥生
此処深川は芭蕉庵
野辺を彩る菫咲き
雲雀囀る忍ヶ丘や
墨田堤は櫻の雲
春の陽気と裏腹に
芭蕉の瞼に浮かぶのは旅愁を誘う雪月花
過ぎ来し方の旅枕
一所不住を旨として
一目観んとや陸奥の
名所古跡に想いを馳せて
我が住み慣れし賤が家を
人手に譲り辺土の行脚捨身無常の旅立ちに
句の魁は草の戸も
住替わる代ぞ雛の家
面八句を庵へ掛けて
門弟曾良と芭蕉翁
お江戸を後に陸奥へ



日光街道二荒山
東照宮を伏し拝み
那須野ヶ原を東へ過ぎり
都追われた玉藻前が
金毛九尾の狐となって那須野ヶ原で石と化し怨み遺した殺生石や
越える往古の白河の関安達太良山や二本松
磐梯山を左手に
観れば阿武隈景勝地
阿武の松原風戦ぐ
杜の都か仙台の
独眼龍は伊達公の
六十二万の城下町
磯の馥も塩釜の
宿で聴いたる古浄瑠璃は
義経主従の奥州下り
漫ろ旅愁を誘う夜



桓武平氏の末裔で
弥平兵衛は宗清の
流れを汲みし芭蕉翁
旅寝の床で観る夢に
奥州藤原三代の
栄華を偲ぶ平泉
奥の御館や伽羅の御所高館臨む義経堂
過ぐる文治は閏の卯月父秀衡の意に叛き
泰衡率いる騎馬武者が衣川なる館に籠もる
義経主従を押し包み
ドッと揚げたる鬨の声義経股肱の四天王
亀井・片岡・伊勢・駿河
武蔵坊なる弁慶はじめ十数人の武士が
大手・搦手数百の
寄せて相手の死闘の末に
劔は折れて矢は尽きる矢面に立つ弁慶は
金剛力士も斯くやとばかり
大薙刀を杖となし
数十筋の矢を受けて
寄らば討たんと立ち往生
早やこれまでと義経公未だ幼気な四歳の
姫と郷御前誘いて
共に冥府へ赴かん
三十一歳一期となして源義経自刃する
父秀衡に順わず
義経討ったる泰衡も
鎌倉勢に攻め込まれ
同年文治は九月の四日比内郡で露と消ゆ
栄華を極めた藤原氏
百と二年の幕引きを
安禄山に擬えて夏草や兵どもが夢の跡



往時を偲び遺構を巡る芭蕉の前にひっそりと名残留める当寺の遺物大樹の森に一宇の伽藍三間四方の金色堂は
覆堂にと包まれて
五百年もの風雨の中で柱は螺鈿を脱ぎ捨てて色失った仏像に
奥の王者と謳われた
清衡・基衡・秀衡の
骸を留めた木乃伊の柩平氏を追って西海の
藻屑となした義経も
奥州の地で最期を遂げる
また藤原も滅亡し
古色にくすむ金色堂に栄枯盛衰無常を観じ
献じる一句は五月雨の降り残してや光堂



更に芭蕉は歩を進め
蜂子皇子開山の
月山・羽黒・湯殿山
出羽三山の霊場や
越後・越中・北国の
知る辺を頼り俳諧・連歌
席を重ねて名所を廻り光彩放つ名句を吟じ
陸奥紀行も大詰めの
美濃国なる大垣で
昔馴染の仲間に別れ
残したる句は蛤の
ふたみにわかれ行く秋ぞ
行程四百七十と
六里に及ぶ奥の細道
先ず一巻を書き終えてその後元禄七年の
五月半ばに芭蕉翁
上方上りの旅に出る



故郷の伊賀で両親の
墓参を済ませ近江から大津を通り洛西の
去来の庵落柿舎へ
七月中旬伊賀へと戻り俳諧仲間や門弟と
旧交温め続猿蓑の
選句に努め九月の八日二郎兵衛・支考を共に連れ
大和・河内の国境
道の難所は暗峠
越えて下った大阪の
門人酒堂の宅へ着く
無理な山路が祟ったかその夜俄に発熱し
十日二十日と日は経てど
恢復の兆し更になく
南御堂の門前に
屋敷構えた仁左衛門
花屋の館へ移される
近郷近在・京・近江
故郷の伊賀や伊勢・大和
門人達が詰めかける
一時は少し持ち直したが
十月十日の暮方よりも容態悪化急変し
死期を悟った芭蕉翁
遺書認めて門弟達の
夜伽の俳句を耳にと残し
十と二日の申の刻
五十一歳の生涯閉じる辞世の句こそ旅に病んで
夢は枯れ野をかけ廻るそれは恰も埋め火の
冷むるが如くの静かな最期
松尾芭蕉の生涯は
漂白流転の旅に生き
生死一如の哲理を究め十七文字に魂籠めた
不朽の名句を世に遺す松尾芭蕉物語
先ずは留める次第なり