浮世絵に見る 吉原の遊女 3
大判の浮世絵版画ですが、軸装されている物です。「志んよし原 江戸町二丁目 大黒屋文四郎内 舞衣」新吉原の妓楼(ぎろう)の大黒屋の遊女である舞衣を描いたものです。後摺りのようですが落款も極印もないので、本来は宣伝の為に吉原遊郭で配る目的で作られた物なのかもしれません。明治になって極印制度が廃止になって、再利用して販売目的で摺られた可能性も考えられます。吉原細見(よしわらさいけん)細見とは案内書のことで吉原遊郭の廓内の略地図、妓楼および遊女の名、揚げ代金、茶屋、船宿および男女芸者などを紹介しているガイドブックのことです。妓楼(遊女屋)ごとに遊女の名や禿の名を記したもので、当時の吉原で売られていた本です。吉原細見 玉屋山三郎 安政6 [1859] (国立国会図書館蔵)吉原細見 玉屋山三郎 安政6 [1859] (国立国会図書館蔵)1859年の吉原細見を見てみると、大黒屋の所に舞衣の名があります。一番上の段の右から三番目大見世のトップ3に入っているのですから、かなりのものです。新吉原細見記 梅素亭玄魚 安政7 [1860] (国立国会図書館蔵)一年後の吉原細見ではトップに上り詰めています。漫画の「さくらん」は8歳で吉原に連れてこられた主人公が、花魁になるまでの出来事を描いた物語ですが、なんだか思いが重なります。主人公は、とても気が強くて男勝りの性格ですが、吉原ではそうでなくては生きてはいけない世界でした。吉原に連れてこられた少女は殆どが借金の形か、貧農の子供達の口減らしで身売りされた子供達です。女衒(ぜげん)という職業の人がいて、地方の農村などから5~10歳ぐらいの幼女をを買い付けて、遊廓などに売り渡していました。人身売買は幕府も禁じていたのですが、妓楼で働く奉公人としての建前で通っていました。買付金額はいくらかというと、決まった金額はなく交渉次第というところでしょうが、地方の農村などでは3~5両ぐらいが普通だったみたいです。幼くして売られてきた少女は遊女見習の禿(かむろ)として、最上級の太夫や、または花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学んでいきます。吉原の遊女は全てがこのような身売りされてきた、少女達だけではありません。市中などで私娼を営んでいた者などが、幕府の取締りで捕まって強制的に幕府公認の吉原に移されてきた遊女達もいました。吉原の遊女の揚げ代については前回に書きましたが、その全てが遊女に入る訳ではありません。遊女の取り分は約25%ぐらいです。しかもその内の60%が借金返済に当てられて、残りが遊女の取り分になりました。散茶という遊女のランクで揚げ代が約 7万5千円でしたから、約7,500円が実際の取り分。一年で300人客を取ったとして、7,500×300=225万円 (22両2分)これならば借金も返せそうな気もしますが、実は裏があります。豪華な衣装、簪などの小物、座敷の調度品は全て自前です。しかも禿が二人付いていたら禿の着物や簪もろもろ全て負担しなくてはなりません。それらを借金でまかなう為に、いつまで経っても借金が減らないのです。見た目に派手な生活をしているように見えても、金子が貯まったから故郷の村に帰りますとか、親に仕送りをするなんてことは出来ない事だったのです。歌麿 松葉屋三美人 部分遊女の年季は10年程です。しかし病や過労、栄養不足などで多くの遊女達は20代で人生を終えてしまいます。そんな中でも吉原遊郭でも有名な遊女になれば、身請け話が舞い込んできます。太夫や花魁などの高級遊女だと身請け金は500~1000両(5千万~1億)だったので、大名や裕福な商家のお金持ちでなければ相手になりません。普通ランクの遊女でも50~100両(5百万~一千万)位だったそうです。また大名に身請けされても幸せになれるとは限りません。気位の高いのが災いして殺されてしまったケースもあります。浮世絵に描かれていた舞衣もきっと身請けされたのだと思います。幕末の動乱の時代に生きた、彼女のその後の人生が良いものになった事を願ってやみません。