不倫・浮気は仏教ではダメなのか。どんな報いがあるか。 | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

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「この人を好きになってはいけない」が恋の始まり、「この人を好きにならないといけない」は恋の終わり、といわれます。
人を好きになるのは、理屈ではありません。
「私の年収はこれこれで、年齢や社会的魅力から判断すると、同僚のA子さんにプロポーズするのが最適だ」と頭の中で分析、計算してから「うお~!A子さんが好きだ~!」と熱を上げる人はいません。
理性は恋の衝動の後に動きます。
「ああ、ステキな人だ!」とまず雷の一撃があり、その後で遅ればせながら理性が活動を始めて「でも、どうやって彼女に近づけば・・・」と作戦を練るのです。



計算では、どうしても好きになってはいけない人、理性的に判断すれば、遠ざけなければならない人であっても、惹かれてしまい、自分で自分の気持ちがどうにもできない時もあります。
この理屈や計算ではどうにもならない、恋の衝動はどこから起きるのでしょうか。



仏教では自分の持っている深い「業力(ごうりき)」が、自分を動かしてしまうのだと説かれています。
「業(ごう)」とは、インドの言葉では「カルマ」、日本の言葉では「行為」のことです。
私たちが過去にしたさまざまな行いが「業力」となって、特定の「その人」を好きになってしまうのです。
それは理屈や理性では抑えきれない、ものすごい強い力であり、釈迦が「業力は大象百頭よりも強い」と説かれているのは、そのことです。
当時インドで一番力の強い象を引き合いに出され、大きなゾウ100頭後からよりも強いのが業力だと仰り、誰も止められない、といわれています。



「こうして、こうなれば、こうなると分かりつつ、こうなった二人」という言葉もあります。
不倫でせっかく積み上げてきたものを棒にする人は後を絶たず、やがてこうなるとわかりながら、なんでやめられなかったのか、と思いますが、何者も妨げることができない強い業力に動かされているのだから、どうにもならないことなのでしょう。