こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年6月下旬。

受験予定は、8ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

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目次

・アドミッションポリシーとは

・東大APには共感できるけれど?

・現実、、の意味

・現代の情報

・統合失調症患者の視野だから

・IQの使い道

・東大にケンカ売ってないからね?

・東大アドミッションポリシー

・妻に愛されてる、、と証明するのは、野暮

 

 

 

アドミッションポリシーとは

 

アドミッションポリシー(以下、APと略す)とは、入学者選抜のための方針・指針、、でしょうか。

リンク先はありますが、今回関係するところは都度要約していきます。

→→アドミッション・ポリシー | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

 

今回話したい内容は、AP自体ではありません。

APでも求められてる、例えば深い洞察力、、

 

ですが、「歴史」の通り、人類から洞察力は失われてきました。

(ex.森林の減少と、排気ガスの充満により思考力の減退は必然)

 

今回は、失ったせいで何が現実で起こってるのか?、、を説明しながら、深い洞察力を「誰もが」取り戻す、、その手法を。

(手法の話は、次回)

 

 

 

 

東大APには共感できるけれど?

 

「理性」の仕事は本来、分析です。

デカルトは「理性」しか依り所がないために、分析、、だけで、論理を構築しようとしました。

 

 

東大のAPには、共感できます。

そうであれば良い、、と思います。

 

けれど、、実際にそうなっていますか??

答えは、誰が見ても、NO。

社会に貢献するはずなのに、社会はどう見ても、混乱の真っ最中。

(ex.若い母親が子どもを産む気にならない社会)

つまり、未だ貢献できていない。

 

20世紀、多くの学生がそれに挑戦してきました。

けれど、彼らは間違った。

暴力を使用してしまったのです。

 

本来ならば、まずは、自分が間違ってるんじゃないか、、と考える。

けれど、徹頭徹尾、相手が間違ってる、、という立場を崩すことはありませんでした。

 

 

 

東大の先生方はどうでしょうか?

アドミッションポリシー通りになれば、社会は良い方向に変わる、、そう考えてるんじゃないでしょうか?

 

社会は変わってませんよ?

変わってる、、と言うのなら、こう返します。

同じ問題が必ず発生し続けるシステムは、変わってませんよ?、、と。

 

それは、先生の思い通りにしない学生のせいでしょうか?

もしかしたら、アドミッションポリシーの「解釈」に問題があるのでは?

 

アドミッションポリシー自体は、美しい。

明治維新も、大正時代の文化も、戦前の青年の心も、美しい。

 

吉野家の経営陣の一人が、「シャブ漬け理論」を披露し炎上しました。

けれど、彼の言ってることは、内容的には資本主義として正しいのです。

(多くの超有名企業は、この手法を使っています)

 

ただ、彼は「美しく」飾らなかった。

それだけの話です。

(他の具体例はあまりに多いので書かなくて大丈夫ですね)

 

 

 

でも、東大の先生方の気持ちは分かるのです。

アドミッションポリシー通りになれば、社会が変わり、日本が変わり、世界が変わる。

 

全くその通りです。

それだけ素晴らしい内容なのです。

 

にもかかわらず、、

社会は全く変わっていない。

それどころか、犯罪も増え続けてる。

 

まだこれから??

いいえ、APが機能すれば、世界は一夜にして変わる。

誇張ではなく、実感できますよ?

 

実感できてないのだから、機能していない。

実感できなくても機能している、、というのは、言い訳に過ぎません。

 

僕は、ムカついてるんだと思います。

これだけ素晴らしい大義名分を掲げられる「思い」を持っていながら、

何の役にも立っていない。

 

大義名分論というのは、単なる「理想論」なのです。

地に足がついていない。

 

けれど、「理想」というのは、イメージなのです。

僕たち人類が愚かにも捨ててしまった「心・精神・意識・魂」を取り戻すための原動力。

 

デカルトやニュートンは愚かにも、心・精神・意識・魂を無視してしまった。

(正確には、感じられなかった、、のだから、責めるのは酷。)

そのせいで、「理性」は暴走し、社会はこのようになった。

 

ブレーキをかけ、方向を指し示す役割を持つ、精神分裂病患者は「人は皆平等」のお題目の通り、単なる病人としての地位を与えられることで、「傾聴」してもらえるようになる。

統合失調症患者の言葉は、西洋精神医学において「可哀想な者の苦しみの言葉」として定義された。

 

 

 

やっぱり、僕はムカついています。

こんなアドミッションポリシーを持つイメージ力を持ちながら、宝の持ち腐れになっている彼らに。

 

だから、この1週間、勉強できていません。

APの内容を見つめようと、デカルト式の混乱の中に(意図的自主的に)いました。

 

嵐の中で、足もとの砂浜を把握します。

答えは見えてるのです。

 

砂浜は、いろいろな現実、現象。

俯瞰的視野ならば、一言で済むけれど、デカルト式に線的論理で構築したい。

 

砂浜の一粒一粒の砂を使って、一つの線にする。

俯瞰的な視野を持つ統合失調症患者が、健常者の線的論理に寄り添う。

 

砂粒はあまりに多く、一つ一つは小さいので、線はできてもゴールまでたどり着かせることが難しい。

その作業を、この1週間しているのです。

 

勉強、大丈夫??

知りますか。

 

やらなきゃ苦しいままだし、

上手くできたら、勉強は上手くいく可能性は高まる。

(必ず上手くいく、、とは言えない。

焦れったいけど、だからと言って、止めるつもりもない)

 

 

 

 

そう。

僕も、彼らを「あなた達が間違ってる」と言っている。

しかし、ここから別の道を選びます。

 

「あなた達」に「僕たち」を組み込んだ論理を構築する。

僕たちは、長い「歴史」の中で、どのように間違って来たのか??

 

必ず、全ての人間が同じ間違いをしていて、同じ解決策を行使できる、、その「道」を示してみせること。

それが、アドミッションポリシーにもある「市民的エリート」(と考えます)。

 

例外はいませんし、例外を作るつもりもありません。

リーダーシップを取る、、ということは、格好良いことでは決してないのです。

 

アドミッションポリシーの「解釈」に問題がありそうだ、、と言った以上、

より洗練された「解釈」を提示するくらいのことはしないと、説得力はありませんよね。

(そこから発展させて、具体的な現実の問題を例に、「歴史」を変えてみせるのは、次回です。

誰が?、、もちろん、僕たち人類の全てが。)

 

 

 

 

 

現実、、の意味

 

問題を見つけ出し、問題を解決していく、、ためには、

現実を見る「能力」が必要です。

 

では、、

現実って何でしょうか??

 

「現実」の定義がいい加減ならば、スタート地点にすら立っていません。

 

犬を見て、「あ、犬だ」と言えることを、「現実」を見ている、、と定義できるでしょうか?

そうですね、確かに「現実」を見ています。

「あ、猫だ」と言ったら、思わずその人の顔を見つめてしまうでしょう。

 

この「あ、犬だ」と認識できること。

これが、「理性」の仕事です。

ちゃんと、猫でなく犬、、と把握したのです。

 

ですが、、「現実」とはこれだけですか?

もちろん、違うと答えてくれる人がほとんどだと思います。

 

では、、その「現実」とは??

それは、今回と次回のブログで表現しようと思います。

 

 

 

 

現代の情報

 

現代の情報というのは、、

基本的に信用できません。

 

AIが発展したことに加え、

個人的な誇り、、ではなく、人は帰属するものに誇りを依存してるので、

真面目に話してるつもりでも、変な方に連れて行かれる怖さがあります。

 

 

 

イスラエルがハマスへ攻撃を開始して間もなくの頃、

妊婦さん向けの雑誌に、京都大学の先生が寄稿していました。

 

「ハマスはテロ組織ではなく、福祉政策もするちゃんとした政府」という前振りだったので、「ほう、、」と思い読み進めたのですが、、

 

具体的な福祉政策については一切触れられておらず、

ただ、イスラエルはずっと酷い国家だった、、とだけ、、

 

妊婦さん向けの雑誌に、、です。

ただ、イスラエルへの憎しみだけを植え付けてしまう話を寄稿する、、

具体的な事実の話は一切せずに。

 

 

 

 

統合失調症患者の視野だから

 

とは言え、、

僕は、統合失調症患者です。

 

どんな酷い人に対してさえ、理解しようとしてしまう。

だから、多くの患者さんが病棟送りにされてしまうのだし(具合が悪くなる、、という意味)、

できるだけ話すのを止める患者さんもいるのです。

 

 


僕は統合失調症患者であり、デカルト式視野とは全く違う俯瞰的視野を(強制的に)持たされます。

 

単純に、本当の意味での「議論」ならば、僕は東大医学部卒だろうが京大卒だろうが、負けたことはありません。

(ひろゆき氏はエンターテイメントとして行ってるので、彼の「論破」とは全く違います)

 

 

 

デカルト式の論理は、目の前の点に繋げるための「線的論理」。

統合失調症患者である僕の論理は、答えまで全て見える視野での「俯瞰的論理」。

 

全く違うことは分かると思います。

実際、東大理Ⅲ蹴りの防衛医大卒の精神科医YouTuber の方のコメント欄では、時々「どうして先生が理解できないのか理解できない」というコメントを見かけます。

 

視野が違う、、ことを考慮すれば、この状況を理解できると思います。

 

 

 

しかし、、

ここで問題が起こります。

 

統合失調症患者を含めた精神障害者の多くは、健常者の振る舞いを理解できません。

なぜなら、現代の健常者は、心・精神・意識を捨て「理性」に特化したデカルト式思想を学び続けてるから。

患者側は逆に、心・精神・意識重視型なのです。

 

だから、健常者に向かって「愛が大事だよね」って言う人もいる。

そんなことは、健常者だって分かってます。

けれど、障害者から見たら、全く分かってないように振る舞っています。

お互いが「当たり前」のことを話してるつもりで、全く意思が通じ合っていない。

 

 

 

 

IQの使い道

 

IQとは、トリセツ(取扱説明書)を正確に読み解く力、、のこと。

そして、僕は、IQが高い。

 

僕は統合失調症患者であり、IQが高い。

もし、IQが平均ほどならば、健常者が理解できないことに困惑し、支離滅裂な話になってしまう。

(だから、統合失調症の症状として、支離滅裂な話をする、、と、医師は診断基準にします)

もし、IQが低いならば、健常者でも当たり前に感じることを言って、振り向いてもらえないでしょう。

(実際には、凄い内容だったりするのですけど、IQが20違えば話は通じない、、と、健常者はスルーする可能性は高い)

 

 

 

もし、障害者のIQが高いならば、、どうなると思いますか?

健常者は、聞こえてない振りか、イジメをするのです。

だから、医師を含めた一般人からのイジメは、健在です。

 

イジメというのは、パニックの一種です。

だから、イジメっ子を罰しても何の解決にもならない。

 

そもそも、パニックを起こさせるものが問題なのに。

だから、統合失調症患者で、いつまでもイジメっ子を責める人は滅多にいない。

(もちろん、ちゃんと記憶はあるので、イジメっ子を嫌がりますけれど)

 

 

 

健常者の世界で、あいも変わらず、似たような凶悪事件や悲しい事故が起きてるのに、罰するしか解決法を思いついていない。

 

それもそのはず。

水戸学式思想の上に、デカルト式思想を受け容れたのだから。

 

「理性」重視になったために、物質主義になった。

だから、人間は、肉体という存在だ、、という世界観と、資本主義が、現代の日本の主軸になりました。

 

 

 

だから、パニックを起こさせるものに「意識」を向けることができません。

目の前にいる加害者にしか「意識」が向かないのです。

 

デカルト式思想とは、心・精神・意識・魂を無視した思想、、ということです。

だから、「意識」のコントロールができない。

 

だから、現代の日本では、呆然とするか、意味なく はしゃぐのを繰り返すか、竹林の七賢のように批判するだけに終始するか、、

それしか方法はないのです。

 

 

 

さて、、

東大のAPで言う「問題を発見する」

 

どうしても、「現実」を見る能力が要ります。

「現実」を見るのに、統合失調症患者は秀でています。

 

統合失調症という病は、病識(びょうしき)を持てません。

病気という「感覚」がないからです。

 

だから、苦しみで自分の病を受け容れる。

つまり、「理性」で自分は病気だ、、と把握するのです。

 

 

 

けれど、健常者の場合、痛みは他人に与えるのです。

アメリカ合衆国の憲法修正案、奴隷は許されなくなりました、、が、

実際には、黒人はあいかわらず苦しめられることになります。

 

人間は自由だ、、という思いに夢中で、アメリカは「現実」という痛みを受け容れられませんでした。


 

 

(注)

ここで言う「障害者」について。

ここでは、健常者と障害者は対等だ、”障害者は下”という価値観は嫌だ、、という思いで振る舞う障害者を話してます。

障害者は障害者なのだから、まず健常者の「社会」に入り込むことを重視しようとする障害者のことではありません。

彼らは、まず障害者は「社会」の中に入って認めてもらう、、という順序で、生きていこう、、とします。

僕とは違う意見です。

それはそれで良いです。

あくまで、自分だけのことならば。

僕にもその順序をあてはめようとするならば、必ず反論することになります。

「あなたは何故、他の障害者を自分より下に見るのですか?」と突っ込んでいきます。

必ず、そういう基準を持つことになるから。

(ここは分かりにくいかも知れないですね。今は説明しません。話が逸れてしまうからです)

 

 

 

 

東大にケンカ売ってないからね?

 

一応、断っておきますけれど、

東大にケンカ売ってる訳じゃないですからね?

 

統合失調症患者は、俯瞰的視野で話を進めるのです。

対し、健常者はデカルト式なので線的視野で、目の前のことしか認識できません。

(そういう訓練ばかりしてきたので)

 

統合失調症患者である僕が意見を言い続けると、どうなるか?

分かりますか?

 

実は、障害者(特に統合失調症患者)が対立するのです。

健常者じゃないんですよ、これが。

 

統合失調症患者なら、僕の言ってることを最初は簡単に理解できる。

だけど、問題が長引いてしまうと、統合失調症患者が対立してくるのです。

 

なぜなら、僕の言ってることは際どい。

しかも、事実しか言わない。

(つまり、相手の人格を非難したり、話題と違う話をしない)

 

だから、外から見ると、僕がイジメてる、、ように見える。

僕の奥さんから見ても、そうです。

 

けれど、僕は一切健常者を責めていない。

だから、僕の言う通りになる。

 

なぜなら、僕は事実しか指摘してこなかったから。

、、こんな感じで、奥さんには少しは認めてもらえてるのですが、、

 

さすがに、他の多くの患者さんに対しては、そんな説明の時間は物理的に持てないし。

 

 

 

洞察力と言ったって、事実を見れなければ意味ないでしょう?

「理性」の本来の仕事は、分析なのです。

分析の能力が秀でてるために、学問は隆盛した。

 

でも、問題の解決能力は??

ほとんどないですよね?

 

環境問題、経済問題、外交問題、平和の問題、教育の問題、健康の問題。

 

そりゃそうです。

分析は、目の前のことを一時停止させます。

だから、全体像を一瞬でも確実に見失う。

「理性」重視にしたので、全体像をいつでも見失うことになったのですから。

 

 

 

東大アドミッションポリシー

 

さて、、

東大のアドミッションポリシー。

 

本学が目指すのは、、

自国の歴史や文化に深い理解を示すとともに、国際的な視野を持ち、

高度な専門知識を基盤に、問題を発見し、解決する意欲と能力を備え、市民としての公共的な責任を引き受けながら、強靭な開拓者精神を発揮して、自ら考え、行動できる人材の育成です。

 

いいですね。

素敵です。

僕が目指すものも、(堅苦しい表現をすれば)この通りです。

 

 

 

日本の歴史を、いわゆる「イキるおじさんが記録してきた」ものだと受け容れた上で、本来の人間との乖離を受け容れる。

 

その流れの中で、文化は生まれました。

文化とは、そのグループの集団的な生き様のことです。

 

だから、何か美しい分野だけを理解しても、現代社会の問題を解決する能力には結びつかない。

だから、どうにかして文化全体を把握する力を取り戻すしかない。

 

国際的な視野を持つためには、例えば「人類は、なぜ奴隷の存在を受け容れたのか?」を自分の論理で説明できなければならない。

なぜなら、「奴隷のような存在がいても当然だ」という意識では、現代社会の問題を解決するどころか、問題の所在すら嗅ぎつけられないだろうから。

 

市民としての公共的な責任を引き受けながら、、とは、何でしょうか?

法律を守る、仕事をする、家族があるなら家庭を大切にする、、でしょうか?

法律は、朝令暮改が日常茶飯事。

(数十年単位で変わるなら、市民としての公共的な責任ではありません。

ex.尊属殺に関する法律)

仕事をする、、例えば、ヨーロッパの学者の話ですが、高い樹木の上の方にどれだけの生き物が生息してるのか、、を調べるために、強力な農薬?を散布し、死んで落ちてきた生き物の数を数える、、という手法を使った人がいます。

こういうのは、公共的な責任を引き受けてる、、ことにはなならない、、のは、分かるでしょうか?

(ex.アニメ『宇宙戦艦ヤマト』で、地球を救うために、森林を破壊しながら宇宙に出発する)

家族があるなら、家族を大切にするのは、当たり前では?

当たり前のことが、現代日本ではできませんね。

それなら、誰も例外なく市民としての責任を果たしていない、、ことになるのは分かるでしょうか?

なぜなら、自分だけが家族を大切にできてる、、と感じても、それが事実でない可能性が高いから。

だって、問題が分からないのでしょう?

だから、解決策が出ていないのでしょう?

だったら、自分の家族にだけ機能してる、、と考えるのは、時期尚早では?

 

 

 

さて、、

東大の先生方が、学生を指導する時に、どう考えて指導するのか知りたいところです。

(興味津々でワクワクしてしまうのです。

友人たちが言うには、にやにやしてる、、と。

奥さんも、止めなさい、、と言うのですが、だって、楽しいでしょう?

人間としての最高峰をお互いが見れるかもしれないのだから。)

 

 

 

 

妻に愛されてる、、と証明するのは、野暮

 

僕のしてることは、説明です。

決して証明ではありません。

 

たとえて言うならば、僕が妻に愛されてることを説明はできても、証明するのは野暮なこと、、だと思ってるということです。

 

証明は、結果が示してくれるでしょう。

 

結果が出てないのに証明するのは意味がない。

結果が出てない時点で説明できないならば、それは推論力も洞察力も足りてないこと。

 

妻に愛されてると証明しようとすれば、現実を見ることが恐ろしくなるでしょう。

証明に重きを置いてしまえば、現実を見れなくなるという弊害が生まれます。

 

 

 

さて、、学問では証明が大切です。

本来ならば、心・精神・意識・魂が担当してくれるはずだった論理力を「理性」だけに背負わせた。

 

だから、証明に重きを置けば、現実を見るのが難しくなる。

社会の問題、人生の問題に気づくためには、現実を見れなければならない。

 

さて、、学問を通して、問題に気づき解決していくことは可能でしょうか?

次回、「可能」と言えるかどうか挑戦します。

 

答えは見えてるのです。

問題も、解決策も。

(もちろん、それを言うだけでハッピーになれる訳はありませんけど)

 

問題は、砂を一つ一つ繋げられるか、、

頭の中では、これも使える、あれも使える、、と多くの素材は集まるのです。

けれど、それらを使って、1本の線にしないといけないので。

 

 

 

 

今日も読んでくださって、感謝です。

次回は、この続きです。

他の内容は、このテーマが終わるまで書けません。

(下書きはいくつかできています)