こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年6月上旬。

受験予定は、8ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

【音量注意】

YouTube 約17分

↓↓

大学受験数学の採点基準を数学科首席が翻訳・解説【東大・京大・東工大・東北大・慶應大】 - YouTube

 

以下は、『受験の月』というサイトです。

→→受験の月 | 学校では教えてくれない受験のための数学・物理・化学 (examist.jp)

→→大学入試 記述試験用答案作成テクニック | 受験の月 (examist.jp)

→→大学入試数学の採点基準 | 受験の月 (examist.jp)

 

 

僕の数学への考え方は、最近のブログに書いてあります。

 

 

目次

・注意事項

・「明らか」という言葉は使うな!?

・僕は「明らか」を使う

・京大らしいよなぁ

・舐めたらアカン

・現代数学の姿を clear に

 

 

 

注意事項

 

ここで書くことは、

あくまで、僕の感想に過ぎません。

 

ちゃんとした採点基準を(「知り」でなく)「学び」たければ、動画を観てください。

採点者の気持ちを知ることができます。

 

 

 

「明らか」という言葉は使うな!?

 

一番面白い、、と思ったのは、

「明らか」という言葉を使うな、、というところ。

 

動画では「その瞬間、採点の目が一気に厳しくなる」という趣旨のことを言っています。

煽ってるように聞こえるそうです。

 

まだ未熟な人が、「論理」が大切な場面で、賢い人に対して「明らかでしょう?」って言ってしまったら、

「本当か?本当に分かってるの??」という心理モードになってしまう、、

 

確かに!笑

 

 

 

 

僕は「明らか」を使う

 

けれど、、

僕は使うのです。

 

もちろん、数学の解答で、、ではないですよ?

僕のブログで、です。

 

「明らかですよね」「当たり前のことですが」

僕は多用します。

 

もちろん、煽る、、可能性があることを承知して。

例えば、「支配者は、皆に歓迎されて受け容れられなければ、支配者になれない」という趣旨の世界史の内容に、、反論する。

その論理の中で、多用するのです。

 

 

 

「愛から見る世界史」では、支配者と被支配者(奴隷含む)の関係は歪、、と考えます。

「支配者が描く歴史」では、人間として自然な姿、、と、捉えます。

(根拠は、史料ではほとんど全てがそうだから、、でも、その記録は支配者が残してるものなのですが、、)

 

このように、、

人間から見た「当たり前」と、支配者から見た「当たり前」は、正反対なのです。

だから、その違いを明確にする意味でも、「明らか」は多用するのです。

 

 

 

とはいえ、

3回前の古代エジプト文明の話の時の、

(ケルト文化の吟遊詩人でなく)中世ヨーロッパの吟遊詩人(正確には宮廷歌人)は、キリスト教会が生み出した、、というところ。

 

さすがに、飛躍のし過ぎでしょう、、って、僕でも思います。

たぶん、統合失調症患者さんの「視野」でも理解するのは難しい。

 

ちゃんと「論理」は繋がるのですけど、

僕の「俯瞰的視野」のトップレベルだと思ってください。

 

一つ注意点は、キリスト教会が単純に生み出した、、のではなく、

きわめて綿密に「プロデュ―ス」してることです。

その「プロデュース」してる、、という観点が、論理を組み立てます。

 

 

 

 

京大らしいよなぁ

 

東大もそうですけど、

京大の方が、らしい、、というか、

 

採点基準は、京大らしくて思わず笑ってしまいました。

だから、京大志望を変更したのです。

 

 

 

たしか高2の時だったと思うけど、

京大の方とのやり取りをして、その重箱の隅まで綺麗にしよう、、という姿勢に困ってしまったのです。

 

一言で済ませられるものは、一言で済ましたい。

それ以上は蛇足だ、、と感じるのです。

 

Z会という通信添削があって、京大の国語で要求される字数を埋めるのに苦労しました。

過去問でも、これは一言で済むでしょう??、、という問題がある、、

 

 

 

健常者には分かってもらえないかもしれません。

その「論理の構築の仕方」で、統合失調症患者と健常者はかなり違うのです。

(違うのに、医師は「病気だから」という優しい視線で聞かないので、医学界にも知られていません)

 

 

 

個人的に、その姿勢の価値があまり分かりません。

 

学部も院も京大卒の方の博士論文、書籍になっていたので読ませていただいたのですが、

着眼点も良いし、論理の進め方もさすが、、と言えるのに、根拠を示すところになると、、う~ん、、と。

 

もちろん、アカデミックな世界で認められるのに必要だ、、というのは分かるのですが、、

これじゃ、学問の世界での立ち位置だけで現実には役に立たなくなっちゃったなぁ、、と、残念な気持ちになったことが。

 

もちろん、「理性」だけで判断すると、完璧と言えると思います。

さすが、博士論文の査定?を潜り抜けるだけある、、と。

 

でも、統合失調症の俯瞰的視野を持つ僕から見ると、まぁ、根拠示さない方が説得力あるよ、、?

(根拠というのは、他の先生の論文のこと)

 

だから、僕の場合、正直、京大の受験は勝てないだろうな、、と思います。

 

 

 

 

舐めたらアカン

 

大学の受験で、、

相手を呑む、、姿勢はかなり重要な戦略になると思います。

 

全て、相手の言うことに唯々諾々では「勝ちに行く」という姿勢になりにくいし、

主体性が生まれにくい、、

 

 

 

だから、ここでも僕は、ちょっと(いや、かなり?)上から目線だったりします。

けれど、舐めたりしません。

 

「理性」重視、、ということは、「人間の能力」の一つに特化した、、ということです。

特化することはバランスを失う、、という副作用が漏れなくセット、、になってるのですけど。

 

だから、「理性」は強力です。

舐めたらアカン。

 

 

 

けれど、僕は統合失調症患者です。

「理性」だけの世界なら、必ず最下層になる存在。

 

本来ならば、上下関係を生み出した健常者が道を失わないために、

アンタッチャブルの立場で「横」の立ち位置にいるはずの、統合失調症患者。

 

だから、表面的な「平等」に惑わされて、「支配者がいることが人間として普通」と言う世界に参加してはならない。

そんなことをしたら、「人間」として認めてもらえるはずがないのだから。

 

 

 

だから、、

バランスが必要です。

 

上から目線を使っても、上下関係に縛られず、

対等という立場に立っても、決して上下関係を見失わず、、

 

それが、統合失調症患者が、大学受験というデカルト式思想の色濃い制度に向き合う時の秘訣です。

 

 

 

 

現代数学の姿を clear に

 

define する、、ということです。

興味ある方は、英英検索してみてくださいね。

「define meaning」で検索すると出てきます。

(meaning の意味も出てきてしまいますが)

 

 

 

デカルトは「理性」を重視し、心・意識・精神・魂を無視しました。

歴史が、彼の心を眠りに就かせたせいです。

 

心が感じられないせいで、孤独に恐怖します。

だから、「理性」にしがみついた。

 

そんな彼が生み出した「デカルト式論理」。

僕が15の時、宿題で出た『方法序説』を読む価値なし、、と、ゴミ箱に捨てたけれど、、

それから約15年後、彼の主張ではなく、彼の「心」に命がけで向き合う日が来ようとは、、

 

僕は、統合失調症患者。

 

多くの患者が恐怖する、虚無の世界。

可哀想に思うけど、デカルトも後の科学者も必死に生み出した、その世界。

舐めることはしない。

 

 

 

大学受験で、必要以上に苦しみたくないのですよ。

だから、結局は自分ファーストなのですが。

 

いつまでも訳も分からず生きてる姿を見ることも、嫌なのです。

 

デカルトが生み出した「理性」。

僕の理性は、あなたを破壊しない。

 

攻撃性は、統合失調症患者の性質ではないし、

身体を意識しづらいために、共感能力は高い、、

 

だから、僕の周波数を上げて(要するに自分を成長させて)、

あなたの傍に行ってあげよう。

(受験数学を落ち着いてする、、という意味)

 

僕は、統合失調症患者。

そして、自分らしく大学を受験する。

 

だから、まぁ、そんなに優しくないですけれど。

 

 

 

では、、行きます。

 

あなた(現代数学)は、美しさを語る資格はない。

「理性」は分析の能力しか持たない。

 

美しさは、心・精神・意識・魂が感じるもの。

 

この宇宙で信じられないほどの虚無を本能的に感じるがために、デカルトは「理性」にしがみついた。

だから、同情を感じるけれど、、

 

あなた(現代数学)は、だから、次のような姿であるべきだった。

「本来の数学」ならば感じられる、喜びも、美しさも、ありとあらゆる全てのことを投げ捨てて、、

 

無感情、無論理、無鑑賞。

ただ、喜びも苦しみも何も感じず、

ただ、目の前の事実と今を結ぶだけ、

美しさも醜さも一切の評価も下すことを許されず、、

ただ、数字を羅列するだけの存在、、

 

それが、あなたの本当の姿。

心も精神も、意識も魂も、全て無視してしまった者の姿。

 

数学は本来、人間の喜びだった。

生き生きとした数式のほとばしりは、宇宙の全て、大自然の全てを描き出す、、はずだった。

 

生き生きとした喜びも、真実を知る喜びも、そんな不確かなものは無視すべき。

信じられるものは、理性だけ、、

 

心も精神も、意識も魂も捨て去った、、

 

だから、あなた(現代数学)には、真実を語り、論理を構築するいかなる権利も、資格も、権限も、、ありはしない。

なぜなら、それら全てを捨て去ってしまったのだから。