こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年4月下旬。

受験予定は、10ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

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目次

・統合失調症患者の受験勉強

・だから、僕は不可触民になる

・患者と健常者の理想的な関係(ex.卑弥呼)

・だから、現代の人類は苦しいのは当たり前

・悪意と無意識

・いつだって自分ファースト

・あなたは信用できない!?

・愛の物語

 

 

 

 

統合失調症患者の受験勉強

 

世界史や日本史では、

今の社会の振る舞いを、これまで以上に理解できてしまう。

 

英語や国語では、

「人は役者、この世は舞台」というシェークスピアの言葉の意味を、まざまざと見せつけられてしまう。

 

理科や数学では、

動きのある生命を扱わず、「止まった」世界を真剣に扱う。

 

 

 

統合失調症患者なら分かると思うけど、

どうして分からないのだろう、、という思い。

 

だから、「大切なのは愛でしょう?」って、

健常者だって分かってることを言ってしまう、、

 

大学を受験する、、ということは、

その健常者の世界をまざまざと見せつけられること。

 

統合失調症患者で、

大学受験をしたい、、と考える人は、それなりにいると思う。

 

その気持ちの原因を知ってるだろうか。

 

 

 

だから、僕は不可触民になる

 

統合失調症患者は、その症状から、健常者の対極にいる。

だから、僕は、自身をアンタッチャブル(不可触民)として見る。

 

アンタッチャブル(不可触民)・・身分制の外の存在であり、歴史では人間として見られないことも。

 

 

 

 

「支配者が描く歴史」とは違う「愛から見る世界史」で相対化する。

相対化では、遺伝子の螺旋構造と同じで、どちらかが上位であってはいけない。

 

現在の健常者の世界は、完全な上下関係、、ということは、患者なら分かるはず。

それは、「歴史」を見れば明らか。

僕だったら、完全な上下関係の社会、つまり、支配者と被支配者の世界を創るなら、、

必ず、、「歴史」の通りの手を打つ。

 

もし、患者がずっと心を落ち着けてることができるなら、

その「完璧な流れ」が見えるはず。

 

だから、、

僕は、アンタッチャブルの立場を意識する。

 

健常者の世界が完璧な上下関係ならば、

そこから離れ、対極の位置を取るには、不可触民の立場しかない。

 

不可触民の立場を構築すること。

それが、今の日本で、唯一の「相対化」の技法だと思う。

 

 

 

患者と健常者の理想的な関係(ex.卑弥呼)

 

昔、日本では、

卑弥呼と呼ばれる者がいた。

 

卑弥呼は、神と交流し、占いを使ったと言われる。

そして、弟に伝え、弟が実際の政治を行なった。

 

この関係性が、健常者の世界・システムで統合失調症患者を役立てます。

卑弥呼が統合失調症だったかどうかは知らないけれど。

 

 

 

人類は昔、統合失調症患者を「神の声を聞く」という立場に置きました。

まだ身分制の強かった時代です。

 

患者が神の声を聞くのか、そんなことはどうでも良いのです。

大切なのは、症状の意味です。

 

統合失調症の症状とは、心・精神・意識・魂が強制的に身体から離れる、、ことです。

つまり、理想主義になりやすい。

しかも、健常者と違い、心・精神を重視します。

し過ぎるほどに。

 

(健常者の理想主義は、患者と違い、心・精神・意識などの助力を得られにくいので、どうしても迷走しやすいのです)

 

患者の理想主義は、身体の助力を得るのが難しい。

だから、物質面に反映させるのが難しい。

 

しかし、患者の理想主義は、健常者以上に、心や精神を大切にします。

 

だから、、

 

卑弥呼の言葉を、弟が、現実世界に反映させる、、ように、具体化させる。

このシステムが、物質重視になってしまった人類の中で、社会を安定させるのです。

 

 

 

 

 

だから、現代の人類は苦しいのは当たり前

 

現代では、、

このシステムは、不可能です。

 

欧米はもちろん、日本でも建前は、人間は平等、、ですから。

 

だから、、

統合失調症患者は、現代の社会で苦しいのです。

 

そして、健常者も、自身でこのシステムを維持し、苦しいのです。

 

 

 

福沢諭吉は、その著書で、

人は平等だけど、実際には上下関係があるので、これからは学問の実力で上下関係を決めていこう、、と言っています。

 

だからこそ、、迷走する。

 

 

 

 

悪意と無意識

 

統合失調症患者は、理解できないのです。

健常者が「無意識に」社会を生み出してることを。

 

統合失調症患者は、身体から強制的に離されてます。

だからこそ、全体が見えてしまう。

 

 

 

だから、患者は、こう思い込みます。

健常者は、全部分かって、この世界を生み出してる、、と。

 

だから、患者はこう思うのです。

「分かってやってるのだから、私を傷つける言葉には悪意があるはず」

 

それに対し、僕の答えは決まってます。

「あの人は、何も分かっていない。

悪意なんてない。

悪意なんて全くないんだ。

だから、悪意を探せば、自分を守ることが遅くなり、深い傷を負うんだ」

 

精神科医師YouTuberのますだ先生は、だから、人は「無意識で」動くことが多い、、と言っているのです。

 

 

 

患者なら、悪意を探してはいけない。

悪意ではなく、なんとなく危ない、、と感じたら、すぐに逃げるか自身を守るのです。

患者なら、分かるはずです。

 

だからこそ、統合失調症患者は、健常者を責めるのではなく、「観察する」必要があります。

患者は、責めるのが苦手です。

それは、肉体から離れてるから。

 

「歴史」を見てください。

健常者の振る舞いを、統合失調症患者は責めていないでしょう?

 

 

 

 

いつだって自分ファースト

 

相対化は、、その場所に立つ必要があるのです。

 

現代では、身分制を捨ててしまいました。

けれど、内面の「心のバランスの不安定さ」は癒されていません。

 

「心のバランスの不安定さ」は、

平和で賢く生きていた人類の中に生まれた「心のバランスを崩した人々」の末裔であることを意味しています。

 

だから、必死にバランスを取ろうとします。

そうして、現代のような社会になりました。

 

だから、苦しいのは当たり前です。

苦しい社会の中で、少しでもまともな社会にしたい。

 

そうでなければ、いつまで経っても、

統合失調症患者である僕は、健常者の悪意なき「無意識の侮蔑」に晒され続けるのです。

 

僕は、いつだって自分ファースト。

僕の大切な奥さんが、いつまでもそんな社会にいることに、

夫として受け容れるつもりは、、ないのです。

 

 

 

全ての人々が無意識に、つまり、何も分からず生きている、、証拠。

特に男性は、可愛い娘にこう言えるでしょうか。

統合失調症患者である僕には、こう見えてるのです。

 

どうだい、この社会は。

素晴らしいだろう?

スクールカーストはあるし、嫌味や皮肉は日常茶飯事。

勉強頑張って医者になっても、あまりの残業に死を選ぶ人もいる。

そんな社会を、可愛い娘(きみ)に贈ろう。

 

 

 

だから、、

大学を受験することは、、この社会を見せつけられることだし、

僕自身の幸せをしっかり持つには、僕が納得する「愛から見る世界史」ばかりではいけないのです。

 

相対化します。

それと同時に、「愛の物語」を描く必要があるのです。

それは、人間が立脚するはずの、、舞台だから。

 

 

 

 

あなたは信用できない!?

 

数日前、奥さんに言われたんです。

奥さんと僕は、よく「生き方」の話をします。

どうやって生きていくか、、認識を共有することは大切だから。

 

「前向きに考えていたんだって知って、安心した」

「僕は、いつだって前向きだよ!?」

「信用できない。

あなたはいつも笑顔だけど、

地獄にいても笑顔でいられる前向きさなんて、信用できない」

 

 

 

・・・はい、そうですね。

 

幸せを構築するシステムを、天国、、と呼ぶのなら、

地獄にいても、天国を構築できなければならない。

 

地獄にいて、ただ笑ってるだけの前向きさなんて、

なんの意味があるのだろう。

 

能無し、、って、奥さんに言われても(言われてないけど)、

反論はできない。

 

 

 

 

愛の物語

 

このブログでは、僕の大学受験のお話だから、

「愛の物語」を書く機会がほとんどない。

 

だけど、ちゃんと描くようにしてる。

毎朝、僕が描いた物語を読んでから、仕事や勉強をしてる。

 

 

 

いわゆる「歴史」が、「愛の物語」を否定する。

 

だから、「歴史」が書かなかった「物語」に気づく必要があるのです。

「歴史」は、勝者の物語であって、書かれていないことは「なかった」ことにする、、のが、「歴史」の原則だから。

 

 

 

1万年~3万年前には当たり前だった「物語」。

現在のケルト音楽では、郷愁という「失われた」物語しか描いていない、、

その「リアルな物語」。

 

そのヒントは、少しだけど、僕のブログにもあります。

僕のお話は、ほとんどが「イキるおじさん」が、家庭の中で奥さんに尻に敷かれるカッコ悪さ、、を描いてるので、ネガティブな話が多いのですが、、

 

 

 

 

今日も読んでくださって、感謝です。