こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年3月上旬。

受験予定は、11ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

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(内容が内容なので、今回ちょっと長くてすみません)

 

目次

(前半)【人間の本性】

・「歴史」を学べば、失敗は繰り返さない?

・同志少女よ、敵を撃て

・戦争って人間の本性?

・「悪魔」って誰?

(中)【人類の頭の良さの証明】

・進化論から見る、人間と野菜の関係

・進化論によって人間は頭が良い、、ことを証明

・3人寄れば文殊の知恵、、が通用しない世界

・人間には常に「自由」がある、の意味

・自分の中に「悪魔」を見つけてあげる

(後半)【平和を創る「歴史」】

・戦争があるから、人はおかしくなる??

・立場の選び方

・平和の創り方

 

 

 

【人間の本性】

「歴史」を学べば、失敗は繰り返さない?

 

「歴史」を学べば、失敗は繰り返さない、、、と言われた人は多いと思います。

けれど、それは本当でしょうか?

 

僕にとって、それはどうでも良いことです。

今のままなら、僕が苦しい、、というだけで十分。

 

東大受験のレベルまで行けないし、人生そのものが苦しい。

だから、失敗を繰り返さないための「歴史」にします。

 

今回は、その具体的なお話になります。

 

 

 

それは、世界史や日本史を勉強する時に、

戦争を先に考えるか、それとも「悪魔」を先に考えるか、、という立場の問題です。

 

戦争は、人間の本性の結果なのか、、?

 

受験「歴史」でも、人生に直結することを忘れてはなりません。

「歴史」そのものの論理的説明が全く異なってしまうから。

 

 


 

同志少女よ、敵を撃て

 

『同志少女よ、敵を撃て』という小説。

2021年にアガサ・クリスティー賞を受賞。

 

僕の奥さんが図書館で借りてきてました。

 

発行が2021年11月。

ロシアのウクライナ侵攻が、2022年2月。

 

発行当初も話題になった本ですが、

ウクライナ侵攻のために、再び話題になりました。

 

「同志」という言葉を使ってるので、ロシアではなく、ソ連時代の話だと分かります。

舞台は、第二次世界大戦での独ソ戦。

 

 

 

 

戦争って人間の本性?

 

日本史もですが、世界史を学ぶ時、

戦争の話題を避けることは、、できません。

 

人間の生き方とは、争い合う、、ことだ、と言いたくなるほどの戦争の数です。

 

では、、

人間にとって戦争とは、不可避なものでしょうか?

 

この問題、興味深くて、

どっちを選んでもちゃんとした論理的説明が可能なんです。

 

どっちもその論理的説明の中で、必ず「人間性」を根拠にします。

人間にとって戦争は不可避、、それは人間の本性だから。

人間にとって戦争は不可避ではない、、それは人間の本性だから。

 

 

 

「悪魔」って誰?

 

じゃあ、説明は不可能?

いいえ、可能です。

 

分かりにくくさせてるのは、「自由」と「デカルト式思想の影響」の2つ。

 

1)まず、「本来の人間性」があると仮定します。

 

2)愛の思いと「自由」によって、心のバランスを崩す人が現れます。(説明省略、またの機会に)

 

3)この宇宙の法則に反してるように見える人々に対処することは難しく、大昔の人々は間違い、何度も人類は滅んだ。

 

4)「原因を見つけるまで、人類は自ら愚かになって滅びを遅くする」という愛の祈りによって、「自由」によって選ぶことが悪い方に行く可能性。

 

5)「愚かになっていく」という人類共通の願いによって、悪い方を選んだことを忘れ、その方向が良い方向、、と勘違いする「自由」を行使する。

 

6)デカルト思想によって俯瞰的な視野を失う、、という「自由」行使。

 

7)俯瞰的視野を失っても、人間としての誇りはそのままなので、人類は暴走しやすくなる。

 

8)現代のように戦争が多くなる。

 

だから、戦争は人間の本性であり、そうではない、、ということが証明されました。

そう、、

まずは「悪魔」が生まれ、その後に戦争を起こす人が生まれるのです。

 

だから、人類は、ヒトラーを悪魔とすることはできない。

ヒトラーや誰かを「悪魔」とすれば、僕たち人類は自らの「(暴力以外の)あらゆる力」を手放すことになる。

 

はっきり言います。

僕たちは、自ら「悪魔」を創り、その結果戦争を経験することになったのです。

これは、責任、、ではありません。

 

ただの「立場」です。

この「立場」に立ってこそ、奴隷を当たり前と見る「支配者が描く歴史」ではなく、「愛から見る歴史」を描くことができるのです。

 

 

 

 

【人類の頭の良さの証明】

進化論から見る、人間と野菜の関係

 

進化論を使います。

 

植物は、食べてくれる相手がより多くを食べてくれるように、自分の味をその生き物が美味しいと感じるように自己構築します。

人間が美味しいと感じる野菜は、本来栄養が満点だ、、ということです。

 

自然界の土に存在する栄養素を使い、また、微生物たちは自身が住みやすくなるために、植物の根に栄養が吸収されやすいように手伝います。

 

全ての生き物ばかりでなく、栄養素も同じです。

栄養素は土の中でバランスよくあらねば、存在が難しくなります。

窒素が多過ぎれば、野菜はダメになり、微生物のバランスも崩れ、窒素の量のバランスが崩れ、空間で安定的に存在することが難しくなります。

だから、窒素などの栄養素も「あたかも」自身が住みやすくなるよう振る舞ってるように見えます。

 

人間が美味しいと感じてくれなければ食べてもらえないばかりでなく、余計な栄養素を土に撒(ま)かれます。

そうなれば、微生物のバランスも崩れ、野菜が美味しくなるよう手助けもできず、当たり前のように存在価値を否定され、つまり微生物は自然淘汰されます。

微生物の手助けを得られない野菜は、いくら栄養素をぶち込まれたところで、人間に食べてもらうための栄養素を取り込めないので、どんどん味がなくなり不味くなります。

 

人間という種の中で、正直なのは子ども。

成人男女は不味くてもドレッシングで誤魔化すこともできますが、子どもは野菜嫌いになります。

 

野菜はもともと自身が住みやすくなるように、人間のための栄養素を取り込んでいました。

だから、人間のために役に立たなくなった野菜は、存在価値を否定され、病に弱くなります(人間はそれに対処するために農薬を発明しました)。

 

 

 

 

進化論によって人間は頭が良い、、ことを証明

 

ここでもう一度、思い出しましょう。

野菜は、自身が住みやすくなるために、人間のために栄養素を取り込んでいるのです。

進化論は、そう説明しています。

 

では、ここで、栄養のある野菜をちゃんと食べてきた生徒と、サプリだけで栄養を取ってきた生徒。

どっちが、東大に入りやすいでしょうか?

 

塾の先生たちに聞いてみましょう。

きっと、答えてくれると思います。

 

『3月のライオン』というプロの将棋棋士のマンガがあります。

脳に栄養を与えようと、名人がブドウ糖を直接摂取してる面白いシーンがありました。

脳の働きは栄養素に左右される、、ということでしょう。

つまり、頭の良さを考える時、摂取してる栄養を考える必要がある、、ということ。

 

進化論に従えば、野菜はきっと人間が頭が良くなるように栄養を取り込んでいたに違いありません。

なぜなら、人間の頭の良さは、植物の生活のしやすさに直結するからです。

 

さて、、ここで考えなければならないことがあります。

せっかく野菜が、人間が頭が良くなるような栄養を取り込んでくれてるのに、なぜ野菜が栄養を取り込むのを邪魔するのでしょう?

 

まぁ、責めても仕方ありません。

ここで必要なことは、頭を良くする栄養を野菜が取り込めなくなった現代、、

大昔と比較して、頭は良くなってる(はず)でしょうか?それとも、頭は悪くなってる(はず)でしょうか?

 

つまり、人間は自分で頭を悪くしてるのです。

ここで、僕がブログで言ってきた「滅びを回避して、人類の中に心のバランスを崩す人間が一定数現れる理由を見つけるために、人類は自ら愚かになっていく」ことが進化論から証明できました。

 

 

 

3人寄れば文殊の知恵、、が通用しない世界

 

さて、愚かになった人間(僕を含める)はいっぱいいても、三人寄れば文殊の知恵、、も難しい。

例えば、東大理Ⅲに1000回受ければ1000回受かると言う人と、偏差値(約90÷3で)30の人が3人集まっても、東大の入試問題で勝てることはないでしょう?(あくまで喩えで、東大理Ⅲに合格できる人が1人で解決できる訳でもありません)

 

 

 

人間には、「自由」があるのです。

賢くなる自由も、愚かになる自由も。

そうでなければ、神?創造主?のおもちゃに過ぎません。

人間の存在そのものが、つまり「自由」を行使できる存在そのものが、地球や宇宙が創造主のおもちゃではない、、ことを示しています。(皆さんは説明できますか?)

 

つまり、聖書にあるように、審判の日がある訳でもありません。

つまり、どこまでも、、人間に責任があるのです。

運命を神とやらに委ねることはできません。

 

だから、戦争は人類の宿命、、という訳にはいかないのです。

それは、単なる甘えになってしまいます。

 

 

 

 

人間には常に「自由」がある、の意味

 

ここで、人間には常に自由がある、、ことの意味を考えます。

神に依存し、神に責任を転嫁する、、ことは不可能です。

(もちろん、シェークスピアの言うように「この世は舞台、人はみな役者だ」と言って、神を責める役割を演じることは可能です)

 

人間には常に自由がある、、ことは、人間は常に創造する存在だ、、という意味です。

必要十分条件です。

 

 

 

自分の中に「悪魔」を見つけてあげる

 

さて、、ここで、「悪魔」を考えます。

 

もちろん、デカルト式思想の本場ヨーロッパでは、心や魂は見捨てられてます。

だから、コントロールが利きません。(←自由、つまり創造の結果)

 

だから、心が暴れる。

当然、耐えきれない人も出てきます。

だから、「悪魔」が犯したような犯罪が発生します。

 

もちろん、新約聖書にあるように、ヨハネの黙示録のような悪夢を見ることもあります。

夢をコントロールする道具である「意識」を見失っているからです。

 

 

 

人間は、創造の存在です。

だから、「悪魔」も想像できる。

何度も何度も想像すれば、当然実現します。

たとえ想像の仕方がとっても下手でも、1000年以上繰り返せば実現しやすくなります。

 

だから、ヒトラーもポルポトも生まれました。

もちろん、僕たちは皆で一緒に愚かになっているのですから、誰一人として戦争を創造していない人はいません。

 

ほら、今使ってるパソコンやスマホは、酷い環境で採掘したレアメタルを使っています。

それを嫌って、もっと合法的な入手先を、、と日欧米の企業は頑張っていますが、嫌なものが見えなくなれば良い、、という基準です。

(興味あればネットにも記事はありますので調べてみてください)

 


 

 

【平和を創る「歴史」】

戦争があるから、人はおかしくなる??

 

戦争があるから、人はおかしくなる、、?

小説にあるような言葉。

 

違う。

逆だ、、

 

戦争小説を読んで、感動して、人はみな戦争を嫌がってる、、と思い、

それを前提に世界に向き合ってしまう。

 

日本の大義名分教育の弊害、、いや、単なる結果。

 

戦争は、自然発生しない。

 

欧米の人々の認識の仕方、

知らなければ、やっていないも同じ。

日本人の認識の仕方も、同じ。

加えて、空想の世界に入っていれば、現実の世界は幻想になる、、?

 

 

 

立場の選び方

 

人間の性質と、歴史を学んで、平和を創る。

俯瞰的な見方。

 

人がいる。

見捨てない。

つまり、誰もが例外なく。

そうすれば人間として生きられる。

 

文字を知ったからと言って、支配者になれる訳ではないし、

文字を知って支配者になったからと言って、奴隷でなくなった訳ではない。

 

なぜなら、支配者は必ず被支配者を生み出し、自分が生み出したものは「自分のもの」だから。

奪われることは、ない。

だから、支配者は奴隷から逃れられない。

 

だから、奴隷になりたくなければ、学校で教わる「歴史」とは違う立場に立たなければならない。

 

人間は、自由。

特に、意識の上で自由。

 

この自由を脅かす者は、決して自由にはなれない。

だから、賢い悪人は、人が自ら望んでそうなるよう仕向ける。

だから、全員が自由を保証されなければならない。

 

○○しなければ幸せは保証しない、、という言い方をしない。

○○しなければ、お前なんかどうでもいい、、という言い方も同様。

 

つまり、見捨てない。

 

 

 

平和の創り方

 

では、どうすれば良いか?

 

目の前に、2つの選択肢を見せてあげる。

しかも、片方を選んでも、もう一方を奪わない。

 

見ただけで分からないかもしれないので、

幸せな生き方を「私」が実行すること。

 

見せびらかしてもいけない。

なぜなら、相手が冷静に観察できないから。

 

まずは、「私」が幸せな生き方を実践する必要がある。

だから、他の人が同じ生き方を選んでいないからと言って、責めることはしない。

 

この状況を、少なくとも日本の中に現す。

 

人間は、自由。

しかし、いや、だから、、誰かを見捨て置き去りにしてはならない。

 

これを前提にすること。

 

 

 

僕たちは皆、一緒に愚かになっている。

自分だけ置いていかれる、、そう感じてしまえば、悲鳴をあげる。

 

大昔の人々は、人類、地球、宇宙の素晴らしさに夢中になって、

置いていかれる者の気持ちに気づかなかった。

 

僕たちは皆、協力して愚かになっている。

想像力も低下している。

 

だから、目の前に見せてあげる必要があるのだ。

「証明して」

そう言われた人も多いと思う。

 

誰もが、どっちも選べる。

一方の生き方をしてる者を拒まない。

 

そのためには、まずは、「私」がそう生きなければならない。

しかも、具体的に分かりやすく。

この日本に、2つの生き方を現す。

 

現代、問題は山積みになっている。

だから、違いは分かりやすい。

 

まずは、だから、「歴史」を相対化しよう。

学ぶことが大好きな日本人。

 

そうすれば、考える、、とは、どういうことか思い出す人が増えるだろう。

それは、僕が東大受験、そして僕の人生を楽にするのに役立つだろう。

 

そう。

僕は、進化論の言うように、利己的遺伝子ならぬ利己的自己で生きている。

 

 

 

 

今日も読んでくださって、感謝です。