こんにちは、夕陽です。

 

【統合失調症患者が「東大受験」してみようか】にお越しいただき、

ありがとうございます。

このブログは、皆さんへの報告というよりも、僕自身の記録・備忘録という目的で進めるつもりです。

 

統合失調症患者が東大なんて受かるのか?そもそも、受験するところまで行けるのか?

障害を知る人の中には、そう心配する方もいるのは分かりますが、、、

そんなことは、僕も分かりません笑

 

現在2024年1月下旬。

受験予定は、1年と1ヶ月後。

 

僕がこれから、どうなっていくのか?

興味がありましたら、思い出した時などに訪問してくだされば嬉しいです。

 

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

※ページ数は、『荒巻の新世界史見取り図 上』のページです。

 

本題「12世紀ルネサンス」は、次回になりますが、、

 

主旨は、、

「支配者」と「奴隷」は同じです、、「自由」がないから。

記事が長くなってしまったのは、あまりに「健常者」と「統合失調症患者」の視野が違うから、、

 

支配者と奴隷は、意味も立場も同じ、、ということを理解していないと、

「12世紀ルネサンス」で笑えないから。

 

以下は、その説明ですけど、僕だけの備忘録として残しておきます。

長いですけど、興味がありましたらどうぞ。。

 

 

 

 

「歴史」を勉強し、自分の知識にすることは、自分の人生を構築していく、、ことです。

どうして?

本当に??

 

 

目次

・「歴史」を語れば、必ず人生に影響します

・人間に自由があるなら、過ちを考慮に入れましたか?

・「歴史」がつながるなんて有り得ないのです

・支配者の真の姿

・「支配者・指導者を求める心」の真の姿

・「支配者」というのは、存在しません

・身分を弁えてない女子、、と非難する成人男性の心境

・「無知の知」という傲慢

 

 

 

 

「歴史」を語れば、必ず人生に影響します

 

「歴史」とは文字史料を基に、書かれていないことは(論理的な)想像力で補い描くもの、、(P10)

 

前回のブログで、僕は学校で学ぶ「歴史」と全く違うストーリーを描いてみました。

→→【東大世界史】ケルト文化の破壊と東ローマ帝国、キリスト教の広まり(物語風?) | 統合失調症患者が「東大受験」してみようか (ameblo.jp)

 

この描かれたストーリーの違いは、何でしょうか?

解釈?

 

いいえ、「解釈」ではありません。

なぜなら、このストーリーの違いは、生き方の違いに直結するから。

 

もし、「解釈の違い」だと思うのなら、「頭の中だけのストーリー」になります。

けれど、「歴史」を描くことは、人生を左右してしまうのです。

 

なぜなら、書かれていないことを「想像力」で補う場合、、

その想像力を左右するものが、「立場の違い」だから。

 

そして、「立場」が違えば、当然のように生き方に影響し、人生が変わってくるのです。

 

そして、その「立場の違い」とは、、例えば、

人間は、幸せに生きる能力を持って生まれてきたかどうか。

人間の能力は「もともと」高いかどうか。

大自然は、人間の味方かどうか。

人間には、心があるかどうか。

心は、人間の味方かどうか。

人間は、神の奴隷かどうか。

、、等々。

 

立場の違いとは、前提です。

前提が違えば、当然、「歴史」の解釈も違ってきます。

 

 

 

 

人間に自由があるなら、過ちを考慮に入れましたか?

 

人類の長い歴史の中で、「王」が存在するのが普通だということはお話しておきます。(P18)

「王」の存在理由を説明することは非常に難しい。(P18)

 

支配者がなぜ支配者なのか?

被支配者、すなわち支配される者が、支配者として認めているからなんです。(P144)

 

 

 

僕の「立場」は、もちろん違います。

大自然は、人間の味方です、、本来は。

だから、人間は、自分の力だけで生きていけます、、本来は。

 

神の奴隷ではないので、人間には「自由」があります。

もちろん、自分が苦しむ、、という選択もできます。

たとえ、マゾ気質や愚かでなくても。

だから、被支配者になった、、ことは、「愚かな選択」をしたからだ、、という選択肢を捨てることはできない。

「必ず」考慮しなければならない論点になる。

 

 

 

そして、「愚かな選択」をした、、ということは、

過ちを犯した、、ことだけど、どこで過ちを犯したのか?、、まで考えなければ「歴史」にはならない。

 

さて、、

アカデミックな「歴史」、学校で学ぶ「歴史」で、

僕たちのご先祖様が、過った選択をした、、可能性があること。

過ったのなら、どこかで過ったのだから、それは「いつ、どんな風に」なのか。

 

この2点を自身で考えるように促されたことがある人がいるでしょうか?

 

 

 

 

書かれていないことを想像力で補う、、と言ったって、可能性を考慮できていないのなら、それは意味のないことでしょう?

 

間違った前提に立てば、数学を見るまでもなく、間違います。

間違った前提に立った人生なら、当然、(間違いではなく)苦しくなるに決まってるじゃないですか?

※人間には自由があるのだから、間違い、、ではない、、単に苦しくなるだけ。

 

 

 


「歴史」がつながるなんて有り得ないのです

 

歴史は流れを理解すれば、、って言う偏差値の高い人もいるけれど、理解できる訳ない、、

あり得ない、、

 

理由は単純で、「支配者(学者等を含む)」が自説にこだわっているから。

大学受験でも、流れを理解できる、、と言います。

例えば『荒巻の新世界史見取り図 中』の裏表紙に国旗などがあり、

描かれてるものが同じだから、「つながり」がある、、と。

 

もちろん、(僕はラノベが好きだし)それでも良いのですが、、

例えば、少し前、日本の女子高生がブランド物を持っている、、ことがニュースになったりしてましたが、、

そうなる理由、「歴史」から説明できますか?

 

僕はできますよ。

(今回は書いてませんけど)

そして、「日本の女性のレベルが高く、頭が良く、世界中でモテる」ことにも関連してることも説明できます。

世界史と日本史、両方の知識を使って。

もちろん、人間なのだから「意識」の知識も使って。

 

「現代につながり、世界につなげる」のなら、

どうしたって、「文字史料」ではなく「人間」を根拠にしなければなりません。

 

現在の「歴史」教育は、「文字史料」を根拠にしてるので、どうしたってぶつ切りになるのです。

ヨーロッパの歴史で出てくる「コロヌス」の起源は、「文字史料」を根拠にした場合と「人間」の場合、

全く違うストーリーが作られます。

だから、参考書を読んでいると、「え!?そうなの!?」って時々なります、、

 

そして、東大を始め、大学受験では「支配者が描く歴史」が出るので、注意深さが必要なのです。(僕にとって)

 

 

 

支配者の真の姿

 

P144 のように、

支配者がなぜ支配者なのか?

被支配者、すなわち支配される者が、支配者を支配者として認めてるから、、と。

 

では、

今の「支配者」をP144の挿絵のように、

サッカーのキャプテンを褒め称えるように、認め「た」人はいますか?

 

いないでしょう?

 

つまり、「支配者」は「支配者」ではない、、と解釈できます。

ならば、何でしょうか?

 

支配者がいれば、必ず「被支配者」がいます。

どのレベルを「奴隷」と言い、「自由民」と言うのか、僕には分からないですけど、、

 

中世ヨーロッパを学んでると、「封建制(ヒューダリズム)」という言葉が出てきます。

主君と臣下の関係は、双務的なもの、、

 

こう学んでくると、だんだん靄(もや)がかかります。

最初の疑問「支配者ってホントに認められたの?」

 

双務的なもの、、だから、認めてる、、本当に?

だって、社会的状況や社会のシステムから、そうなっただけだから。

 

認めた→→支配者として受け容れた、、の順番ではないのです。

社会的にそうだったから、自分も生きるために、あの人を「支配者」として振る舞おう、、としただけ。

 

だから、

「支配者」は「支配者」ではありません。

だって、条件を満たしてないから。

 

ならば、何者??

 

まず「被支配者の代表格」である「奴隷」の条件って何でしょうか?

自由がない、、こと。

 

では、「支配者」って自由はありますか?

もちろん、ありません。

 

大切で可愛い彼女と囁き合うのに、自由に振る舞えるでしょうか?

もちろん、無理です。

 

だから、『ローマの休日』という永遠のロマンスが生まれる訳です。

人間として当たり前の自由がない、、存在が、「支配者」です。

 

社会制度の中では「支配者」でも、人間としては「自由のない存在」。

 

つまり、、

「支配者」とは、「奴隷」なのです。

 

社会制度の中でトップだよ?、、と言う人いますか?

その社会制度は誰が作ったのでしょうか?

 

人間の不断の努力と営みが、、というのは有り得ません。

なぜなら、大多数の人間が「自分たちが(楽にコントロールされて)楽をするために」支配者を作ろうとしなければならないから。

 

参考書でも、時々書かれてます。

リーダーを一人にし、権力を集中するのは、動きを速くするため、、

皆の意見を取りまとめると、時間がかかって仕方ない、、と。

 

非常時になら、そうでしょう。

でも、毎日毎日非常時だったのでしょうか?

 

まさか、、

 

ならば、非常時が終わった瞬間に、権力を全ての人々に返さなければならない。

なぜなら、非常時の対処とは違い、日常の決断は数千年を見渡せる「知恵」がなければ迷子になるから。

 

日本の政治家は、100年の計、、と言うらしいですけど、

100年では短過ぎます。

たかだか3世代では、例えば森林を破壊しても影響は見えにくいですから。

 

今の社会制度は、赤の他人、信用できるか分からない存在が作ったのです。

 

 

 

「支配者・指導者を求める心」の真の姿

 

原始時代が、不安に満ちていた、、と言う。

だから、人々は「指導者」を求めた、と。

 

けれど、それならば、ちゃんと国家ができたら「指導者」を求めなくなるはず。

それなのに、ずっと「指導者」を求めてます。

だからこそ、参考書でも人間は奴隷になるのが自然であることが前提の内容になっていたりするのです。

 

 

 

もちろん、人間は「奴隷」になんかなりたくありません。

だから、例えばアメリカ大統領の支持率は、戦争が起こると跳ね上がるのです。

明治か大正時代の偉い政治家は、戦争起こってラッキー(僥倖)と言ってます。

 

だから、無意識にでも戦争を求めるのです。

自分に「支持」を集めるために。

 

だけど、一般の国民も同じです。

 

いいですか?

誰もが、奴隷には、なりたく、ありません。

つまり、人は「この社会では必ず支配者・指導者になりたがる」ようになっている、、ということです。

 

だからほら、殺人は嫌悪する人は多いのに、同じようにニュースで流れる戦争を忌避する気持ちは弱いのです。

だからほら、近世近代と時代が下るにしたがって、

戦争は増えてるでしょう?

 

 

 

このように流れていきます。

だから、だんだん、「指導者」を求める気持ちが強まっています。

良い大学に入りたがる生徒は多くなっているし、自分は有名人になれないと感じれば、SNS上でもニュースでも誰かを批判する勢いは衰えることを知りません。

 

「王」がいるのが当たり前で、人間が支配者を望む存在だ、、という前提に立てば、

こういう状況になるのは、当たり前なのです。

無意識に感じるので、小説や哲学では「人は苦しむのが当たり前」なストーリーが語られます。

 

 

「支配者」というのは、存在しません

 

だから、荒巻先生もおっしゃってるように「文字の記録」がなければ、私は存在が証明されない、、と。(P9)

きちんとした根拠(文字史料)に基づいた想像力のたまもの、、それが、「歴史」だ、と。

 

文字の記録がなければ証明されないもの。

そんなものは、もともと存在しないのです。

 

現代ですら、別に文字の記録に残らなくても存在は証明できるでしょ?

だからでしょうか、、マンガやラノベではこういうテーマが多いですね。

 

人の心に残る歴史。

もちろん、「支配者が描く歴史」は残らない。

 

誰でもいい、、あなたを思い出す時に、心が温かくなってくれる人がいる。

その繋がりが、あなたの存在を宇宙に向かって証明し、永遠につながる可能性のある「歴史」です。

 

文字は失われたり、支配者が変われば永遠に失われるけれど、

(だから、現代の世界は文字の史料の保存に躍起になっているでしょう?)

人の思い出は永遠です。

 

現代を生きるあなたでさえ、その気になれば、ご先祖様の笑顔をイメージできます。

(それが人間の能力だから)

 

文字記録が失われれば、存在を証明できなくなる?

いやだなぁ、、そんな刹那的な世界、、

 

 

 

身分を弁えてない女子、、と非難する成人男性の心境

 

P243~244 では、

「身分」があるのだから、「分を弁(わきま)える」よう苦言を呈してます。

、、日本の女子高生や20代女性をバカにし過ぎです

 

ブランド物を持つのは、身分の高い人に限られる、、と、ヨーロッパの人たちが言うのだから、と。

分を弁えられない日本人が増えていることに、多少のいらだちを感じています、、と。

 

日本人女性を評価するのに、ヨーロッパの人の基準で評価して、非難しています。

ブランドの本場は、ヨーロッパなのだから、、と言うのなら、日本の高級ブランド(あるか知らないけど)なら良いのですか?

 

10代女子というのは、

大人が作った社会を、自分の中に取り込もうとするのです。

本当なら、社会の姿を取り込んで、大きく成長する土台にするのだけど、、

現代は、成長する土台になり得ないだけなのです、、

 

10代女子の世界、、

スクールカーストがあって、イジメは容赦なく死に追いやる、、こともある。

ね?

ちゃんと社会を取り込んでるでしょう?

 

ブランド物を買う10代20代女子も、社会を取り込んでるのです。

その上で、彼女たちは自分の幸せを上手に構築しようとしている。

 

だから、荒巻先生がいらいらしてるのは、それでは幸せになれる訳はないと知ってるから。

自分の作った世界を、10代女子に見せつけられ、自分の創造を「あなたの創った世界は、こんなんだよ」と言われてる気になるから。

これは、日本人男性なら感じることです。

 

だから、日本人の大人の男性で、女子高生を嫌う人は多い。

だって、彼女たちは素直に見せてくるから。

成人男性の創った世界は、こんなのだって、、

 

自分を見て黄色い声で「きゃー」って言ってくれる女子が好きで、

多くの素直な女子を、生意気だと嫌うのは、見たくない自分を見せられるから。

 

 

だから、僕はこだわるのです。

「愛から見る世界史」に。

それが、たとえ、僕たちのつまらない姿を見せるものであっても。

 

 

 

 

「無知の知」という傲慢

 

僕たちの心を知るばかりでなく扱うためには、

宇宙が始まる前まで遡らなければならない。

 

デカルト以降の世界は、目に見えるものしか扱わない、、と言う。

にもかかわらず、人間が理解できない、、と嘆き、

しまいには、言葉で伝えあうけれど、自分の思ったように伝わらないのも事実です、だからこそ、言葉を持つ人間は争いあうと言えるでしょう、、とまで、、

 

当たり前でしょう?

受験の参考書を読んでると、毎日泣いてます、、

 

 

 

目に見えるものだけ扱うのなら、、

原子の話をしましょう。

 

宇宙が始まった瞬間、ビッグバンの時から「原子」は生まれました。

原子というのは、もちろん僕たちの身体を構築しています。

 

原子が生まれ、

原子そのものが持つエネルギーと、周囲のエネルギーによって、

原子の進む道が決まります。

 

では、、

宇宙が生まれた瞬間にできたその原子とエネルギーの法則を用いて、

人間の身体を形づくるまでを「物理学」で説明してください。

 

できないでしょう?

できないのなら、どうして「無知の知」などと言えるのです?

 

「無知」を知ることなどできないのです。

教えてください。

 

あなたは、何を知らないのですか?

 

「知らない」ことを、知ることはできないのです。

簡単な例をあげます。

高校で学ぶ数学を思い出してください。

 

言われませんでしたか?

質問する時には、どこが分からないか説明できるようになってから、おいで、、と。

 

どこが分からないか分かってから、、

無知の知。

 

どこが分からないか分かった時は、「そこに答えとなるものがある」ことを知ってるのです。

だから、無知ではありません。

 

本当に分からないことは、分からないことすら分からないのです。

 

にもかかわらず、

分かる、、と思いましたよね?

 

それなりに受験勉強して大学を卒業した人、、

原子の話をした時に、「今の科学では分からないけど、必ずいつかは、、」と。

 

そして、そう思うことで、胸が張れる。

 

当たり前です。

人間は、そうなってるからです。

 

人間は、必ず万能感があるのです。

 

人間は、全てを知っています。

いいえ、全てを「把握」する力があるのです。

 

把握とは、例えば大気の全てを理解できなくても、帆船を操り気持ちいい航海ができる、、こと。

 

万能感があるから、無知の知という傲慢な言葉を言える。

なぜ、無知の知、、と言ってしまったのか?

 

「無知」と言ってしまえば、「俺ってすげぇ!」、、そう言えるからです。

 

「無知の知」って謙虚な言葉だと思ってましたか?

いいえ、その正反対の言葉です。

その理由は、、

 

人は、全てを「把握」する力があります。

だからこそ、今の科学では分からないけど、いつかは、、と言えるのです。

 

だから、本来は「知らない」とは言えないのだけど、、

 

「知らない」ことは、扱えません。

風のことを知らなければ、帆船を操ることもできません。

 

それは、帆船を操る「実力がない」ことを意味します。

けれど、風があることは知ってるのです。

 

言葉遊びのようですね。

 

風が吹くことは知っています。

にもかかわらず、帆船が扱えない、、なら、単に実力がないだけです。

 

繰り返しますが、単に実力がないだけなんです。

 

さて、、

「無知の知」にあてはめます。

 

「無知」って、なに?

風が吹くこと?風の性質?

 

帆船の扱い方、、でしょうか?

では、、「無知の知」って?

 

俺は、俺が帆船を扱えないことを知ってるんだ!

 

、、だから?

そう言いたくなりませんか?

 

誰だって、何かの実力はない。

けれど、それを認められない。

なぜなら、自分には(誰にでも)万能感があるから。

 

デカルト以前から、心を軽んじていたこの世界。

魔女狩りで、心がより麻痺します。

 

心が麻痺したことで、万能感が暴走し始めます。

だから、「単に実力がないだけ」と自分自身を評価できない。

 

だから、、

「無知の知」と言うのです。

無知の知と言えば、胸を張れるから。

 

 

こういう傲慢さが、12世紀ルネサンスを契機に強まります。

これが、デカルト的視野(線的)ではなく、統合失調症の俯瞰的視野で見た世界史です。

 

 

 

ここまで読んでくださって、感謝です。

全く違う「視野」を説明することは難しいですね。

一般的に統合失調症患者が支離滅裂な説明をしてしまうのは、このせいなのですが、、

 

少しでも皆さんに分かりやすければなぁ、、と思います。

(それは、受験での文章表現力に直結するからでもあります)