出雲国では「左吉兆」と書き、「とんどさん」、「歳徳神」の祭礼とも連動しています。
出雲大社の「吉兆さん」は有名ですが、松江の「左吉兆」と関係はあるのでしょうか。
松江には、幸い、古文書・古記録等が残っていますので、
その一端を御紹介してまいりたいと思います。
先ずは、「左吉兆」について御紹介します。
1.出雲国における「左吉兆」
(1)松江における例
松江に現存する史料中、「左吉兆」の内容等が記されている最古の史料は、
私の知る限りでは、松江市南部の旧東津田村に残る文政元年(1818)からの
『左(佐とも)吉兆入用』の記録です。
農村部では正月14日に行われていた様で、宮(神輿)も各地に現存して居ます。
古老の話では、昔は地区境で神輿をぶつけ合っていたと聞いており、
確かに屋根の隅角が損傷している宮が多く、
現存する既知の宮(神輿)で製作年の分かる最古のものは、明和8年(1771)奉造の宮です。
また、城下での例では、
ある商人の日記によれば、
・文政13年(1830)正月11日 「惣町左吉兆宮ヲ御幸スル」
・文政13年(1830)正月12日 「今日モ左吉兆宮御幸スル」
・文政13年(1830)正月13日 「惣町左吉兆宮御幸スル」
・文政13年(1830)正月13日 「暮々火ヲ焼」
・文政13年(1830)正月15日 「殿町馬事ニギニギシク由」
・天保 3年(1832)正月13日 「両町佐吉兆例年ヨリハ格別殿リ合ニテシツカナリ、
是近年凶年引ツゝキタル故米□高キユヘ」
・嘉永元年(1848)正月12日 「町内左吉兆宮出ルやたい(屋台)組」
・弘化 5年(1848)正月13日 「左吉兆賑ハひ町々に而異行の思ひ付いたし申候」
・弘化 5年(1848)正月14日 「殿町へ出テ左吉兆馬乗りとも見ル」
・嘉永 2年(1849)正月11日 「上出雲郷村上中下モト三社左吉兆宮ヲ子ル」
・嘉永 2年(1849)正月12日 「左吉兆宮出し一通リ子ル」
「夜ニ入町内左吉兆囃子見ニ出ル」
・嘉永 4年(1851)正月11日 「去年大凶作ニテ(中略)左吉兆モ昨日迄ハ
両町惣町共ニ音曲之沙汰モナカリジガ
昨十日ヨリ少シ御上様之サソヒニテ左吉兆之義式モ有之」
・嘉永 4年(1851)正月12日 「和多見左吉兆家タイ」「今晩囃子方共スル」
・嘉永 4年(1851)正月13日 「昨夜囃子方へ出夜八ツ時ニ戻リタレ共、今日又日用相勤申候」
・嘉永 5年(1852)正月 9日 「殿様去十二月十四日江戸御出立ニ而、
当正月十四日御入国被為在候ニ付、
両町左吉兆之賑ヒ今日ヨリ明十日両日可仕旨被仰出、
則今日宮出シ町内御幸有之賑々布事共なり」
・嘉永 5年(1852)正月10日 「左吉兆宮白潟社内ニテ久敷子ル」
・嘉永 5年(1852)正月17日 「御上之左吉兆来ル廿三日ニ相成候由」
・嘉永 6年(1853)正月12日 「今日モ休ミ左吉兆スル」
「町内左吉兆家台ノ棟上ケ致シ」
「左吉兆見ニ出候由ニテ大勢入込賑々敷事共也」
・嘉永 6年(1853)正月13日 「今日ハ左吉兆ニテ当年ハ御上様御不例
殊ニ去年以来御家中様イカヨウノケッコウニテモ
三味泉(線)御停止ニ付町家モ場入左吉兆モ穏カナリ」
と見える様に、
城下では、基本的に正月の11日から14日まで左吉兆の宮が町内を練り歩き、
14日・15日に「馬乗り」
大手前と馬溜りで「とんど」を焚き上げ、太鼓と鍾で囃し立て、
諸士が火事羽織・火事頭巾を着して騎馬の儘「とんど」の周囲を乗り廻り、
心木が明き方へ倒れるのを合図に、先を競って北に馳せ、北殿町から米子橋に至って折り返し、
京橋で又折り返して城まで帰って来る
行事を行っていた様です。
現在でも、旧城下および在郷の各町・各集落に左吉兆の宮(歳徳宮)が祀られて居ますが、
担ぎ手不足からか、練り歩いている処は少なくなり、練り歩きは1日だけとなっています。
此の宮は他地域でも見かけますので、形式分類しながら分布状況を調べてみると
文化圏域を知る一助となるかも知れません。
※ 八束町入江の宮(明和8年奉造)

また、中心に立てる高い竹を今は一般に「しんぼく(神木)」と呼んで居ますが、
先の『佐吉兆入用』から、江戸時代の文政3年には「しんたけ(神竹)」と呼んでいたことも分かります。
≪続く≫