今年の正月も、各地で行われている正月行事が各種メディアで報道されている。
報道記者は専門家ではないから致し方ないが、由来や用語解釈等の点で聊か疑問を抱かざるを得ない内容もあり、報道内容を鵜呑みにし易い日本人は、伝統文化を間違って伝承していくのではないかと心配になった。
元来、伝統文化は、その地域特性に合った形で育まれて来たものであり、行事の名称や次第・形態はそれぞれに個性があったものである。
例えば、当地でも近年は5日頃に行われる事が多くなった「とんど」行事について古文書・古記録を調べてみると、少なくとも江戸時代までは14日か15日に「佐(左)吉兆」の名称で行われており、「とんど」とは言っていない。
いつから「とんど」と云うようになったのであろうか。
そこで、種々の文献や論文等を繙いていたところ、当初の目的ではないが、「祭」のあり方に関する大変示唆に富んだ論考に邂逅することができた。
予てより私も考えて来た事であり、やはり実践しなければならぬと改めて気付かされたので、新玉の年の初めにあたり是非御紹介したい。
『日本宗教事典』
薗田稔氏は「祭と生活感覚」の論考で、
祭は、日本人の季節感覚に先がけする生活風俗の句読点であり、年中行事は厳密に言えば、おもに家単位の民俗レベルの行事である点で、神社の祭とは別に考えることもできるが、祭は何よりも氏子たちの神事祭礼であって、やはり民間の年中行事や生活暦に大きな影響力を持っているとし、
≪(ケ)の生活と晴(ハレ)の行事≫の項で、
⇒ 日本人の伝統的な生活暦は、もと季節の変化と生業のリズムに基づいていた。『魏志』倭人伝の原典ともされる『魏略』には、倭人が暦を知らず、ただ「春耕秋収」をもって一年を数える、とある。たしかに「神祇令」四時(しいじ)祭の条に見るように、古代の一年は仲春、すなわち旧暦2月初旬の祈年祭に始まって、仲冬、すなわち旧暦11月中旬の新嘗祭に終るかのごとくである。御年神(みとしのかみ)を祭る祈年(としごい)のトシとは五穀、とりわけ稲の豊作(稔(トシ))を意味し、収穫後の物忌みを経て冬至前後の神事が新穀を皇祖神に供する新嘗の神事であった。民間でも立春前後の春田打ちや田植の予祝行事に年が始って、冬至前後の霜月祭で年が終ることが生活の基本であった。冬至から立春に至るまでの寒い季節は、もっぱら冬籠りして春に備えたものらしい。だから7世紀後半には定着した中国暦も、冬至に始まる二十四節季でありながらやはり立春正月を年の始めとしたから、おおよそ日本列島の季節変化にも適合した。貞観3年(861)以来の唐の宣命暦の採用から貞享3年(1684)の貞享暦を経て宝暦4年(1754)の改暦があり、さらには明治5年(1872)の新暦制定に至るまで、ともかくも一貫した中国伝来の暦法があった。そしてこの長い年月の間に、祭や年中行事も次第に暦法そのものに従うようになった。大正月(朔日正月)や小正月(望(もち)の正月)、立春正月にさまざまな予祝行事が集中し、はては実際に田植が始まる花見時の祭事をも花見正月とか田植正月と唱えるほどであった。
ともかくもこうして日本人の生活暦は、四季の変化に沿う地方の生業暦に公の暦法を組み込んで営まれてきたもので、これに明治6年以降の新暦施行がからんで、複雑な様相を呈してきたが、要するにおおよそは、地方ごとに春の初めの予祝祭と秋の終りの収穫祭とに挟まれた生産労働の日々があって、これに正月と盆という冬夏の二大行事が全国的な規模で生活の区切りをなしたと考えてよい。そして春から秋にかけて常の労働の日々のあい間に節句や市や神祭のための「遊ぶ」日を設け、とくに春秋の大きな祭礼に当っては数日の物忌みをして男女とも普段の労働を差控えた。「物日(ものび)」とか「事日(ことび)」とか「節(せつ)」と言った年中行事や、神祭の特別な日々は一般に「晴(ハレ)」の時であって、普段と違った晴着を著け、事改まって晴膳(はれぜん)を囲むのが例であった。もとは普段の日常生活態を「褻(け)」と称することがあって、普段の平服を褻着(けぎ)といい、雑穀まじりの主食を褻稲(けしね)といった。だから労働するケの生活が続くなかで時にハレの行事を織り込んで互いに生気を取戻したわけである。と述べ、続く
≪マツリの言語感覚≫の項では、
⇒ さて祭ほど昔も今も日本人の生活文化として親しみのあるものは他にはあるまいが、さて祭とは一体何かと問われると、案外言葉に窮してしまうことが多い。祭はいうまでもなく神をマツルことに間違いはないが、肝心の神という観念が近頃の近代風の常識に災いされて全知全能であるとか絶対とか超越の存在という知的理解が先行するために、マツルこと自体に意味の混乱が生じてきている。マツルとは、端的にいって本来、普段見えぬ神が現れるのをマツ(待つ)意味と出現した神にマツラフ(奉仕する)意味とを合せ含んでおり、古くタテマツルといえば下位の者があくまで恭順し侍座して相手を上位に遇することをいう。したがって日本語のマツリは、このマツル・タテマツルという上位の神に奉仕する意味の動詞の名詞形であって、常は見えぬ神が一定の見える場所、接触し得る場へ現われるのを待ち迎え歓待する意味をもつ。だからこそ古代国家の政治は、マツリの場で神命を実現するマツリゴトでありえたのである。ついでながら祭における神命はミコトすなわち神言ないし御言である。神前に慎んで祭主がタテマツル(献る)祝詞は、本来ノリトすなわち詔言(ノリコト)であるから、祭主が「神ノ命(ミコト)モチテ詔(ノ)ル」つまり祭る者が祭られる神の御言さながらに発する言葉となる。詔ルとは祭の場での神威の発言をいう。したがって祭に出現する神意はミコトとして、やがて神の尊称であるミコト(命・尊)に定着したと考えることができよう。
要するに日本の神々は、本居宣長が正しく表現しているように古典に記された天地諸々の神、神社のさまざまな祭神ばかりか、時には、人や鳥獣、木草や海山までにも感得されるが、やはり「尋常(つね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」(『古事記伝』三)である理由は、神が人々のマツル場でこそ「可畏し」と立ち現れるのを待つべきをいうのである。したがって日本の神々は、普段いかなる物に潜む形であろうと神として祭る以上は上位に奉る(タテマツル)ことになる。カミは、あくまで神(かみ)であり上(かみ)なのである。
≪祭の面白さ≫の項では、
祭礼は本質的に面白さを内包している。面(おも)が白くなることは人がある異常な興奮にかられている状態を指している。古くは人に神が憑依した有様をいう言葉であった。言い換えれば、忘我の境に遊ぶのである。洋の東西を問わず、遊ぶことは神々の世界に遊ぶ祭であった。日本でも古典には神々や死者を祭るのに鼓、笛、旗をもって歌い舞って遊ぶ、とある。神遊びとは祭の別名であって、田遊びと言えば田植神事のことである。西洋のある古代学者は、祝祭性とはどうにも他に言い変えようもない文化の位相であって、いわば舞踏に伴奏される音楽のようなものだという。伴奏があるからこそ動作がリズムとメロディに乗る舞踏になるように、祭の位相はおのずから人びとを神遊びの境地にとりこむのである。しかも祭は、遊びと同様に嘘を承知でしかも夢中になるところがある。子供たちが本当でないまねごと遊びに夢中になるように、大人たちも事の真偽を問うことなしにスポーツやゲームの世界に遊ぶことができる。遊びは架空を承知で複数の人間同士が真剣に経験し合う世界であって、普段の平板な生活と違った生気あふれる時間と空間の営みが共有される。祭もまた、祭るべき神々の世界についてあらかじめ存在の真偽を問い、それへの信・不信を知的に論じることから事が始まるごとき宗教文化ではないはずで、やはり祭は本質的に遊びと通じ合うところがある。端的に誤解を恐れずに言うと、祭は本来的にその神を信仰するからこそ執行するという性質のものではない。あえていえば、祭が先で信仰は結果である。いわば祭の中で普段では得られようもない心象風景を味わえばこそ、神の世界に目覚めてくる。祭は、一種大人の、それも意味深い遊びなのである。
≪祭の公共性≫では、
遊びが遊ぶ者同志の共同体を成すように、祭もまた祭る社会の原共同体を表出する。社会が真に社会であるためには、成員相互の苦楽を分ち合う連帯を欠くことはできない。しかし、現実には、平生さまざまな利害の対立や矛盾が錯綜して社会の連帯はとかく破れ勝ちである。祭は、そうした日常の現実が留保されてともかく一時的にせよ夢のような原共同体を社会によみがえらすためだ。そればかりか来訪する神々や祖霊を介して社会を根源的に生かしめているはずの自然や歴史が、それぞれ原空間や原時間として立ち現れるからこそ、普段は執着し勝ちな私的問題などはとるに足らぬ事柄として原共同体の中に雲散霧消してしまうのである。祭は、日常の現実から見れば確かに社会規模の盛大な浪費であり無用な遊びである。だが実は、いわば無用の用ともいうべき実利を越えた、社会の根源的蘇生という大きな富の獲得であることを忘れるべきではない。
現代の日本社会は、今や日常的な労働生活が減少して相対的に増加する余暇と老後との生活をどのようにすれば人びとの充実した人生に資するものにできるのかが真剣に問われるべき時代を迎えている。老後の人生を社会から隔離することなく、しかも余暇の生活を社会的な堕落に陥らせないためにも、社会の存立に深くかかわる公共の遊びとして祭という伝統文化を再評価すべきではあるまいか。
この論考は、昭和60年2月に刊行されたもので聊か古いのであるが、この薗田博士の示唆は、今日の社会においても、珠玉の論考である。