「魚はまず頭を落として、腹を割いて内臓を出して……。綺麗に洗って、骨にそって身を外して」
 彼は包丁を研ぎながらボソボソと呟いていた。刺身包丁、三徳包丁、出刃包丁。タオルは濡らして包丁の傍に置く。白い息と冷たい水で真っ赤に荒れた手。男は納屋の中にいた。小さなオレンジ色の豆電球だけで照らされている納屋の中を、隙間風がビュービューと吹き荒れている。漁網の塊が絡まり合いながら、納屋の壁に引っかかっていた。バケツの中に水が満杯に入っている。
 彼は薄汚れたジーパンと黄色のダウンという姿だった。前髪が目を隠しているので、唇を噛み締めている口しか見えない。寒さに対して凍えているのか。または、納屋の隅で怯えている彼女に対しての緊張なのか。小さく息を吐いた。
 納屋の隅で、漁網に絡まり怯えている女がいる。髪の毛はまだらに切られて荒れ放題の黒髪。血の気の引いた顔は青白く、体は痩せていた。所々にザラザラと色褪せた海色の鱗が付いてあり、それは腰から下に密集していた。足はなく、そこには大きな尾びれがある。尾びれは海の中を自由に動き回るため、大層立派だったのだろう。だが、今は傷だらけのくたびれた尾びれ。
 そう彼女は人魚と呼ばれる怪物なのだ。男は偶然、彼女を手に入れた。
 鋭く研ぎ終わった刺身包丁の歯を男は眺める。
「魚ならまず、頭を落として」
 男と彼女の間には畳一畳分の距離があった。人魚は怯えており、網を握りしめている。彼はまるでデッサンの鉛筆で物体の大きさを測るように、包丁を人魚に向けた。
「腹を割いて内臓を出して」
 言葉にならない彼女の悲鳴か、海風が納屋の隙間を通る時の音なのか。海は大荒れで、雨も降っている。
「綺麗に洗って、骨に沿って身を外す」
 彼の目は前髪によって見えない。ゆっくりと男は立ち上がった。
「じゃあ、人魚は」
 雷が落ちる。豆電球のオレンジ色の光がパッと消えた。ここは寂れた漁村。この納屋も今はもう、使われてはいない。