俺はコーヒーが飲めない。飲めないというか、飲まない。ただそれだけと言えばそうなんだけど、コーヒーなんて飲まないほうがいいとすら思う。歯は黄色くなるし、依存していく人もいる。よくテレビとかで丁寧な暮らしの朝はまずコーヒーブレイクから始まる、みたいなのを大学生の時に見たことがあるけども、丁寧な暮らしなんてなんだ。くそくらえだ。朝早く起きてコーヒー飲むより、ギリギリまで睡眠時間を確保した方が良いに決まってる。

「コーヒー飲むと朝が始まった気がするわ」

 と兄はいう。朝はコーヒーを飲まなくても始まるだろって言ったら「これだからお子ちゃまは困る」と馬鹿にするように笑った。なんだなんだ、たかが3歳の差しかないというのに偉そうに。俺だってもうすぐ社会人だ。今に見てろ、俺は「コーヒーを飲まないと朝が始まった気がしない」とかいう大人にはならない。そう心に誓った大学最後の冬。内定も出た。春から社会人になる。


 仕事を始めてもう2ヶ月経つ。まだ2ヶ月ともいう。期待と不安を抱えて入社した会社で俺は営業をしていた。とは言ってもまだ研修中なんだけど。一番初めに上司から、この仕事がどんなふうに成り立っているか説明を受けた時には漠然とヤバそうとしか思わなかった。

「まず、一件契約を貰うには3件見積もりをもらわないといけない。3件見積りをもらうには、10件会わないといけない。10件会うためには最低でも100件電話をかけないといけない。始めは電話をかけるだけだから出来るが次第に会うことも同時進行で行わなくてはいけない。研修もある。時間管理をまずは学んでいってくれ。サポートはする。だが君たちがどれだけ愚直に頑張れるかが一番大切だ」

 1週間経って電話営業のキツさを知る。もっと早くに知るやつもいたりして、頑張っても頑張っても空回りしているような気がし始める。自分にはこの仕事向いてないんじゃないか、と同期のやつらと酒を飲んだりした。

 

「サイトウ、ちょっと休憩しよう」

 何回目か分からない電話をして、ついには冷たくあしらわれたりした電話を受話器に置いた時だった。先輩のヤマダさんに声を掛けられた。ヤマダさんは俺のチームの教育係で渋めの7年目。よく喫煙所でタバコを吸っている。

「いや、でもまだ目標件数に行っていませんよ」

 ガチャぎりも合わせてここまでは掛けないといけないという目安まで20ぐらいある。思わずため息をついた。

「まぁ、いいじゃねえか。ちょっと休憩した方が効率が上がる時もあるぞ」

 こいこいと笑う先輩を見てため息を再度ついた。仕方ない、そう呟き椅子から立ち上った。


「とりま、コーヒーでいい?」

 ブラックか微糖かどっち?と先輩はこちらを見ずに言う。「あ、僕はコーヒー飲まないんで大丈夫です」というと驚いた風に振り返った。

「え、なに体質?」

「いや、なんか好きじゃなくて。体によくないような気がして飲まないだけです」

 あー、なるほど?と首を傾げている。じゃあ、と続けてこう言った。

「酒は?歓迎会でお前、浴びるほど飲んでなかったか?」

 なにが違うの?と言いたげである。俺は確かにと思いつつも「丁寧な暮らしの代名詞なとこあるじゃないですか。だから嫌いなんですよね」と答えた。「わかんねぇな、お前って」と先輩は笑って言った。

「いいじゃん、丁寧なくらい。コーヒーだけで丁寧な暮らしはできないだろうけど、コーヒーだけで丁寧に暮らせてるなって思えるなら安いんじゃね?」

 俺はまぁ、そうですねと曖昧に答えた。

「俺の考えを押し付けるわけじゃないけど、あまり頑固になってもいいことなんてないぞ。失敗続きでもとりあえず目安件数までいこうじゃなくて、気分転換をする方が効率が良かったりするしな」

 先輩がコーヒーが嫌なら水でいい?と聞きながら自動販売機のボタンを押した。出てきたものを俺に投げる。

「コーヒーでも水でも、俺はなんでもいいけどさ。ちょっと休憩してから戻ってきな。俺はタバコ一本吸ってから戻るわ」

 手をひらひらと振ってヤマダさんは喫煙所に消えていった。俺は手の上のペットボトルを眺めていた。


 別日。今日もまた何件も振られてため息を吐いていた。ふと斜め前のヤマダ先輩の机を見たら、先輩はいなかった。タバコかな。俺はなんとなく立ち上がった。少し休憩をとることにしたのだ。

 喫煙所の近くに自動販売機がある。いつもなら水を選ぶのに、先輩のことを考えていたからかコーヒーのボタンを押していた。微糖。ガコンと出てきたコーヒーを見てミスったなぁと頭をかいた。

「あれ、今日はコーヒーの気分なんか?」

 サイトウどうした、熱か?とタバコくさい先輩。これでもしっかり契約をもらってくる。俺と何が違うんだろうか。手の上のコーヒーを眺めつつ考えた。

「僕、コーヒーは嫌いですけど、別に飲めないと言うわけでもないんですよ。仕事終わりに酒飲みながら愚痴を言うより、短時間で休憩して結果を出せるようになるなら、お酒の代わりにコーヒーでも良いかもしれないですね」

 先輩の真似してみます。缶を開けて一気飲みをする。

「お前って、単純だよな。いいと思うぞ、がんばれ」

 先輩は照れたように笑った。先輩のタバコは俺のコーヒーだ。なんだかスッキリしたように感じた。