平成27年9月12日(土)13:00~、18:30~、俳優座劇場にて。
台本/エマヌエル・シカネーダー
作曲/ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、林光(「遠い遥かの時の彼方から」)
訳詞/林光
演出・台詞・構成/加藤直
美術/池田ともゆき
衣裳/太田雅公
照明/成瀬一裕
振付/山田うん
舞台監督/八木清市
舞台監督助手/松村若奈
演出助手/上原真希
音楽監督/萩京子
宣伝美術/片山中藏(デザイン)田中千智(画)
出演/
シカネーダー・パパゲーノ:大石哲史
シカネーダーの妻・パミーナ:梅村博美
ザラストロ:多田羅迪夫
夜の女王:青木美佐子、豊嶋理恵(ダブルキャスト)
タミーノ:山本伸子、鈴木あかね(ダブルキャスト)
シカネーダーの弟・モノスタトス:高野うるお
パパゲーナ:田中さとみ、川中裕子(ダブルキャスト)
夜の女王の侍女:大久保藍乃、西田玲子、岡原真弓
長老:武田茂
奴隷・僧侶:佐藤久司、佐藤敏之、富山直人
奴隷・僧侶・兵士:沢井栄次、島田大翼
少年:小林ゆず子、熊谷美里、沖まどか
モーツァルト:太田まり、金村慎太郎(ダブルキャスト)
演奏/
フルート:姫田大
クラリネット:橋爪恵一
ヴァイオリン:山田百子(9/3・7・11~13)、手島志保(9/4~6・8~10)
ピアノ:寺嶋陸也
シカネーダー楽団/
トランペット:島田大翼、泉篤史
トロンボーン:太田まり
ティンパニー:鈴木あかね、田中さとみ、島田大翼
モーツァルトは、前払いでカネをもらったものの『レクイエム』の作曲にはいっこうに身が入らない。
『魔王の笛』の初日が開くと、なんだかんだと理屈をつけては
劇場を覗きに出かけ、『レクイエム』はほったらかし。
モーツァルトがたっぷりと吸っていたのは、サリエリの毒ならぬ〈劇場の毒〉だった。
オペラは劇場の舞台で、一晩ごとに生まれては死ぬ。
生きた言葉と歌が飛び交い、役者は大汗かいて走り跳ね、
うそをほんとと言いくるめ、観客は笑いどよめき埃をたてて応える。
この、はかなくも眩しい束の間の祝祭に、
モーツァルトほどふさわしい〈作者〉はほかにない。
新たなくふうをこらしてお目にかける、こんにゃく座の『魔法の笛』。
笑いと興奮の、二十一世紀祝祭オペラ――林光
(公演チラシ及び当日パンフより)
たとえば、こうして書いてる舞台の感想(的な雑文)だって、
何から書き始めよう、ということはけっこう真剣に考える。
それは、私があなたに何を伝えたいか、という問いと密接に関わることだからかもしれない。
こんにゃく座の歌芝居『魔法の笛』は、
「今日、モーツァルトが死んだ」という言葉から始まった。
大蛇に追われる王子でもなく、
モーツァルトのもとを訪れて作曲を依頼するシカネーダーでもなく、
ひとりの音楽家の死について人々が語る、そういうオープニング。
フロックコートに山高帽の紳士と長いスカートの淑女。
人々が客席通路をゆっくりと辿って舞台に向かっていく。
頭上から舞い落ちてくるのは、訃報を告げる号外だろう。
「モーツァルトが死んだ」というセンセーショナルなニュース。
時代の寵児だった音楽家の死に、人々はそれぞれ愛惜の言葉を口にしつつ、
舞台に置かれたトランクに白い花を手向ける。
今日、モーツァルトが死んだ。
1791年12月5日、ウィーン。
思い返すと、その場面の印象はモノトーンだった。
長いコートや山高帽は暗めの色合いだったはずだし、
頭上から撒き散らされる号外と一輪ずつ手向けられる花は白々としていた。
けれど。
僕は死んでなんかない、と鮮やかな紅の衣装をまとって、彼=モーツァルトが登場する。
ダブルキャストで、一方は女性、もう一方は男性がモーツァルトを演じる。
『まげもん』や『ネズミの涙』で健気なヒロインを演じていた太田まりさんと、
『ロはロボットのロ』で一生懸命なパン作りロボットの少年を演じてた金村慎太郎さん。
太田さん演じるモーツァルトは、少年めいた無垢を、
金村さん演じるモーツァルトは、人間臭い陽気さを、それぞれ色濃く感じさせた。
舞台上には、縦長のドームに似たセットがある。
鳥かごのようにも、天球儀のようにも見えるそれは、
もしかしたら劇場の象徴なのかもしれない、と思った。
そのドームの中で、絢爛で滑稽で荒唐無稽な魔法の物語が始まる。
大蛇に追われる王子。
夜の女王とその侍女である三人の魔女。
陽気な鳥差し。
ここから、さらわれた女王の娘パミーナを取り戻しに行く王子の冒険譚が始まる。
この劇中劇が、いわゆるモーツァルトの『魔笛』なのだろう。
わかりやすく美しい日本語とモーツァルトのきらめくメロディが、
たくさんの象徴を織り交ぜた物語を、鮮やかに彩っていく。
夜の女王の歌う超高音のアリアやパパゲーノとパパゲーナのデュエットなどの有名な曲も、
ああ、こういうストーリーだったのか、とわかっていっそう楽しい。
劇中劇とその外側の物語の重なる仕掛けもいろいろあつて。
台本/エマヌエル・シカネーダー
作曲/ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、林光(「遠い遥かの時の彼方から」)
訳詞/林光
演出・台詞・構成/加藤直
美術/池田ともゆき
衣裳/太田雅公
照明/成瀬一裕
振付/山田うん
舞台監督/八木清市
舞台監督助手/松村若奈
演出助手/上原真希
音楽監督/萩京子
宣伝美術/片山中藏(デザイン)田中千智(画)
出演/
シカネーダー・パパゲーノ:大石哲史
シカネーダーの妻・パミーナ:梅村博美
ザラストロ:多田羅迪夫
夜の女王:青木美佐子、豊嶋理恵(ダブルキャスト)
タミーノ:山本伸子、鈴木あかね(ダブルキャスト)
シカネーダーの弟・モノスタトス:高野うるお
パパゲーナ:田中さとみ、川中裕子(ダブルキャスト)
夜の女王の侍女:大久保藍乃、西田玲子、岡原真弓
長老:武田茂
奴隷・僧侶:佐藤久司、佐藤敏之、富山直人
奴隷・僧侶・兵士:沢井栄次、島田大翼
少年:小林ゆず子、熊谷美里、沖まどか
モーツァルト:太田まり、金村慎太郎(ダブルキャスト)
演奏/
フルート:姫田大
クラリネット:橋爪恵一
ヴァイオリン:山田百子(9/3・7・11~13)、手島志保(9/4~6・8~10)
ピアノ:寺嶋陸也
シカネーダー楽団/
トランペット:島田大翼、泉篤史
トロンボーン:太田まり
ティンパニー:鈴木あかね、田中さとみ、島田大翼
モーツァルトは、前払いでカネをもらったものの『レクイエム』の作曲にはいっこうに身が入らない。
『魔王の笛』の初日が開くと、なんだかんだと理屈をつけては
劇場を覗きに出かけ、『レクイエム』はほったらかし。
モーツァルトがたっぷりと吸っていたのは、サリエリの毒ならぬ〈劇場の毒〉だった。
オペラは劇場の舞台で、一晩ごとに生まれては死ぬ。
生きた言葉と歌が飛び交い、役者は大汗かいて走り跳ね、
うそをほんとと言いくるめ、観客は笑いどよめき埃をたてて応える。
この、はかなくも眩しい束の間の祝祭に、
モーツァルトほどふさわしい〈作者〉はほかにない。
新たなくふうをこらしてお目にかける、こんにゃく座の『魔法の笛』。
笑いと興奮の、二十一世紀祝祭オペラ――林光
(公演チラシ及び当日パンフより)
たとえば、こうして書いてる舞台の感想(的な雑文)だって、
何から書き始めよう、ということはけっこう真剣に考える。
それは、私があなたに何を伝えたいか、という問いと密接に関わることだからかもしれない。
こんにゃく座の歌芝居『魔法の笛』は、
「今日、モーツァルトが死んだ」という言葉から始まった。
大蛇に追われる王子でもなく、
モーツァルトのもとを訪れて作曲を依頼するシカネーダーでもなく、
ひとりの音楽家の死について人々が語る、そういうオープニング。
フロックコートに山高帽の紳士と長いスカートの淑女。
人々が客席通路をゆっくりと辿って舞台に向かっていく。
頭上から舞い落ちてくるのは、訃報を告げる号外だろう。
「モーツァルトが死んだ」というセンセーショナルなニュース。
時代の寵児だった音楽家の死に、人々はそれぞれ愛惜の言葉を口にしつつ、
舞台に置かれたトランクに白い花を手向ける。
今日、モーツァルトが死んだ。
1791年12月5日、ウィーン。
思い返すと、その場面の印象はモノトーンだった。
長いコートや山高帽は暗めの色合いだったはずだし、
頭上から撒き散らされる号外と一輪ずつ手向けられる花は白々としていた。
けれど。
僕は死んでなんかない、と鮮やかな紅の衣装をまとって、彼=モーツァルトが登場する。
ダブルキャストで、一方は女性、もう一方は男性がモーツァルトを演じる。
『まげもん』や『ネズミの涙』で健気なヒロインを演じていた太田まりさんと、
『ロはロボットのロ』で一生懸命なパン作りロボットの少年を演じてた金村慎太郎さん。
太田さん演じるモーツァルトは、少年めいた無垢を、
金村さん演じるモーツァルトは、人間臭い陽気さを、それぞれ色濃く感じさせた。
舞台上には、縦長のドームに似たセットがある。
鳥かごのようにも、天球儀のようにも見えるそれは、
もしかしたら劇場の象徴なのかもしれない、と思った。
そのドームの中で、絢爛で滑稽で荒唐無稽な魔法の物語が始まる。
大蛇に追われる王子。
夜の女王とその侍女である三人の魔女。
陽気な鳥差し。
ここから、さらわれた女王の娘パミーナを取り戻しに行く王子の冒険譚が始まる。
この劇中劇が、いわゆるモーツァルトの『魔笛』なのだろう。
わかりやすく美しい日本語とモーツァルトのきらめくメロディが、
たくさんの象徴を織り交ぜた物語を、鮮やかに彩っていく。
夜の女王の歌う超高音のアリアやパパゲーノとパパゲーナのデュエットなどの有名な曲も、
ああ、こういうストーリーだったのか、とわかっていっそう楽しい。
劇中劇とその外側の物語の重なる仕掛けもいろいろあつて。
公演全体の演奏を担当する方々とは別に、
シカネーダー楽団として、役者さんたちが劇中劇の楽団員として演奏したり。
シカネーダーが演じる鳥刺しのパパゲーノは魔法の物語のコミカルな狂言回しのはずなのに、
ヒロインとのデュエットや可愛いパパゲーナとの場面も座長兼作者の権限で(?)確保したり。
パミーナを演じる梅村博美さんは、シカネーダーの妻も演じていて、
というか、その妻が座長である夫に「私に魅力的な役を。可愛いヒロインを」とねだって
パミーナ役を得た、ということになるのだろう。
ベテラン女優であろう座長の妻の貫禄と、
可憐なソプラノで恋する乙女を初々しさをどちらも説得力を感じさせた。
シカネーダーの生真面目そうな弟が舞台の傍らで解説したり、
悪役であるモノスタトスを演じることへの思いを語ったりもする。
劇中劇ではパパゲーノが狂言回し的な役割(逸脱することも多いが)を務めるけれど、
この芝居全体の狂言回しに近い位置にいるのは、この座長の弟だろう。
観客に語りかける台詞も多いけれど、そういえばこの役の名前は出てこなかった気がする。
その匿名性も含めてこの役のキャラクターなのかしら、と余計なことも思った。
パミーナをさらったザラストロを客演の多田羅迪夫さんが演じる。
初演や再演では、複数のキャストによる傀儡めいた非人間的な存在として描かれていたそうだけれど、
今回のザラストロは、圧倒的な存在感を感じさせつつも、
支配と慈しみを併せ持つ「父」の印象が強かった。
物語の中では、父たるザラストロと母たる夜の女王をはじめとする、多くの対立軸が示される。
しかし、ザラストロの示す男性論理に加わろうとする王子をソプラノの女性が演じるような、
劇中劇の二元論からはみ出すような仕掛けもあって。
それらを超越するように、ドームの上に腰掛けるモーツァルト。
その後ろには、作り物の月が見える。
昼と夜、男と女、円と三角、そして、魔法と現実。
けれど、ラストシーンで魔法の国の住人たちが現実の装いに戻っても、
彼らの歌声は劇場に響き続けていた。
モーツァルトは死んだのではなく、月に行ったのかもしれない。
彼のポケットからこぼれた音楽が、いまも世界中で鳴り響いている。
観終わって帰る電車の中で、ついつい「パ・パ・パ」のメロディを口ずさみそうになった。
マチネ終演後、ロビーで行われたトークイベントに参加した。
セットや衣装、歌や演奏、それぞれの役で苦労した点や見どころなどいろんなお話を伺えて、
その後で拝見した夜の公演がいっそう興味深く感じられた。
エジプトの神々を模した僧侶のかぶり物、奴隷の鎖の音のことや竹馬などのこと。
演出家のこだわりや小道具などについて。
3人の少年たち(白いおかっぱヘアと肩に羽根のついた白一色の衣装)は、
外観も歌声もキレイに揃って、男性側でも女性側でもない、ある種の超越感を感じさせた。
同じく3人組の魔女たちの、カラフルで個性的な振る舞いとの対比も面白かった。
初演(1994年)や再演(1999年)との違いや共通点などのお話も興味深くて、
そういえば、さきほど書いたザラストロのことなんかもこのときに伺ったことだ。
初演の頃と比べて、座員さんの(特に若い男性の)層が厚くなった、という話題に、
長く応援してらっしゃるファンの方々が、
感慨深そうにうなづいてらっしゃったのが印象に残った。
なるほど、歌も演奏も演技も身体能力も、
それぞれレベルの高い役者さんがそろっている中で、
技術を見せること以上に、演劇性あるいは物語性にウエイトが置かれている印象が、
いっそう私をこの舞台に惹きつけたような気がする。
この劇団の芝居については、まだほんの数本しか拝見していないけれど、
なんとなく「芝居」や「演じること」についての芝居が印象に残っている。
旅役者が演じる物語という形の『まげもん』。
西遊記を演じる旅の一座を主人公とした『ネズミの涙』。
次回の東京公演で上演される『クラブ・マクベス』も、
ある男が訪れたクラブで、『マクベス』が演じられる、というものらしい。(←たぶんw)
歌や芝居についてのこういう目線が、個人的にはとても好みに合っていて、
たぶんこの『クラブ・マクベス』も観に行くことになるだろう。
シカネーダー楽団として、役者さんたちが劇中劇の楽団員として演奏したり。
シカネーダーが演じる鳥刺しのパパゲーノは魔法の物語のコミカルな狂言回しのはずなのに、
ヒロインとのデュエットや可愛いパパゲーナとの場面も座長兼作者の権限で(?)確保したり。
パミーナを演じる梅村博美さんは、シカネーダーの妻も演じていて、
というか、その妻が座長である夫に「私に魅力的な役を。可愛いヒロインを」とねだって
パミーナ役を得た、ということになるのだろう。
ベテラン女優であろう座長の妻の貫禄と、
可憐なソプラノで恋する乙女を初々しさをどちらも説得力を感じさせた。
シカネーダーの生真面目そうな弟が舞台の傍らで解説したり、
悪役であるモノスタトスを演じることへの思いを語ったりもする。
劇中劇ではパパゲーノが狂言回し的な役割(逸脱することも多いが)を務めるけれど、
この芝居全体の狂言回しに近い位置にいるのは、この座長の弟だろう。
観客に語りかける台詞も多いけれど、そういえばこの役の名前は出てこなかった気がする。
その匿名性も含めてこの役のキャラクターなのかしら、と余計なことも思った。
パミーナをさらったザラストロを客演の多田羅迪夫さんが演じる。
初演や再演では、複数のキャストによる傀儡めいた非人間的な存在として描かれていたそうだけれど、
今回のザラストロは、圧倒的な存在感を感じさせつつも、
支配と慈しみを併せ持つ「父」の印象が強かった。
物語の中では、父たるザラストロと母たる夜の女王をはじめとする、多くの対立軸が示される。
しかし、ザラストロの示す男性論理に加わろうとする王子をソプラノの女性が演じるような、
劇中劇の二元論からはみ出すような仕掛けもあって。
それらを超越するように、ドームの上に腰掛けるモーツァルト。
その後ろには、作り物の月が見える。
昼と夜、男と女、円と三角、そして、魔法と現実。
けれど、ラストシーンで魔法の国の住人たちが現実の装いに戻っても、
彼らの歌声は劇場に響き続けていた。
モーツァルトは死んだのではなく、月に行ったのかもしれない。
彼のポケットからこぼれた音楽が、いまも世界中で鳴り響いている。
観終わって帰る電車の中で、ついつい「パ・パ・パ」のメロディを口ずさみそうになった。
マチネ終演後、ロビーで行われたトークイベントに参加した。
セットや衣装、歌や演奏、それぞれの役で苦労した点や見どころなどいろんなお話を伺えて、
その後で拝見した夜の公演がいっそう興味深く感じられた。
エジプトの神々を模した僧侶のかぶり物、奴隷の鎖の音のことや竹馬などのこと。
演出家のこだわりや小道具などについて。
3人の少年たち(白いおかっぱヘアと肩に羽根のついた白一色の衣装)は、
外観も歌声もキレイに揃って、男性側でも女性側でもない、ある種の超越感を感じさせた。
同じく3人組の魔女たちの、カラフルで個性的な振る舞いとの対比も面白かった。
初演(1994年)や再演(1999年)との違いや共通点などのお話も興味深くて、
そういえば、さきほど書いたザラストロのことなんかもこのときに伺ったことだ。
初演の頃と比べて、座員さんの(特に若い男性の)層が厚くなった、という話題に、
長く応援してらっしゃるファンの方々が、
感慨深そうにうなづいてらっしゃったのが印象に残った。
なるほど、歌も演奏も演技も身体能力も、
それぞれレベルの高い役者さんがそろっている中で、
技術を見せること以上に、演劇性あるいは物語性にウエイトが置かれている印象が、
いっそう私をこの舞台に惹きつけたような気がする。
この劇団の芝居については、まだほんの数本しか拝見していないけれど、
なんとなく「芝居」や「演じること」についての芝居が印象に残っている。
旅役者が演じる物語という形の『まげもん』。
西遊記を演じる旅の一座を主人公とした『ネズミの涙』。
次回の東京公演で上演される『クラブ・マクベス』も、
ある男が訪れたクラブで、『マクベス』が演じられる、というものらしい。(←たぶんw)
歌や芝居についてのこういう目線が、個人的にはとても好みに合っていて、
たぶんこの『クラブ・マクベス』も観に行くことになるだろう。