平成27年6月20日(日)19:00~、東演パラータにて。

作/三好十郎
演出/鵜山 仁(文学座)

キャスト/
柴田欣一郎(父):能登 剛(劇団東演)
柴田 誠(長男):藤原章寛(劇団文化座)
柴田欣二(次男):南保大樹(劇団東演)
柴田双葉(次女):古田美奈子(劇団東演)

せい子:名越志保(文学座)
富本三平:沖永正志(劇団文化座)

圭子:東さわ子(劇団東演)

清水八郎:木野雄大(劇団東演)
お光:光藤妙子(劇団東演)

浮浪者:清川佑介(劇団東演)

ものがたり/
敗戦直後、焼け野原の廃墟に住む歴史学者・柴田欣一郎の一家。

柴田は「国民一人分」の戦争責任を背負い、
大学に休職願を出し闇物資にも手を出そうとしなかった。
組合活動に手を染める長男・誠は父親の歴史観を批判し、
特攻隊崩れの次男・欣二は虚無的となり自らを持て余していた。

父と兄弟二人はそれぞれの思いを激しくぶつけ合うが、
次女・双葉は人間を許し信じようとする。
ほかの廃墟に寄り集う者たちを巻き込み、戦後の剥き出しになった現実と真実が渦巻いていく。

……戦後70年。
三好十郎の渾身作に挑戦し、戦争責任と戦後民主主義の在り方を改めて問う!
(公演チラシより― 配役等一部加筆)

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ホントは、来る予定ではなかった。

文化座と東演の共同公演で、それぞれの本拠地での上演プラス佐賀公演があるのだが、
他の予定との兼ね合いで、5月末に文化座アトリエの方へ観に行ったのだ。
(そのときの様子はこちら→戦後70年共同企画 劇団文化座+劇団東演合同公演『廃墟』

なのに。

文化座のアトリエで観た後、気になって戯曲を読んでみた。
文字で読むだけでも、行間から人々の呼吸が、葛藤や熱が感じられる気がした。

思考も理想も、弱さも矛盾もひっくるめて人間である。
……そんなことを思った。

そうして目で追ったセリフを、もう一度劇場で体験したい、その想いが抑えられなくなって、
結局、日程をやりくりして東演パラータでの公演も観に行くこととなった。

改めて劇場で観始めて、すぐにハッとした。

読んだばかりの言葉が、俳優の血肉を得て生きた人の言葉として立ち上がっている。
それが鮮やかに胸に落ちて、それだけで少しドキドキした。

序盤は、柴田と教え子のやり取りを中心に話が進む。

柴田を演じる能登さんは、この役を演じるためにきっとずいぶん体重を落とされたのだろう、
他の作品で拝見したときよりお痩せになって、衰弱した柴田の雰囲気がよく出ている。
しかし、弱っていてかつ優しそうな風情の中にも強い意志を感じさせる。

教え子役の木野さんのまっすぐそろえた指先や背筋に生真面目さがにじみでる。

2度目というだけでなく、戯曲を読んだこともあって、
話の展開は1度目よりよくつかめる。

教え子との会話で、柴田の置かれている状況が語られ、
借金の催促にきた大工のかみさんとのやりとりで、生活の様子や自死した長女のことがわかる。

大工のかみさんのずけずけとしたどこか感情が麻痺したような物言い。
食べ物がなくて乳が出ないため、背負った赤ん坊はもう泣き声さえ立てられない。
性格と言うより、そんな、ある意味極限状態の中での奇妙な情動なのかもしれない。

物語後半の議論が印象に残っていたが、改めて観ると前半からずいぶん論を戦わせている。
中心となるのは、日本人一人分の戦争責任があると自らを責める柴田と、
社会主義思想であり、権力者の戦争責任を問う長男の誠の間のやりとりだ。

理路整然と進む議論ではない。

食べ物や恋愛やそういうあれこれに感情的な反応を示したり、
からかうように三平や欣二が口を挟んだり、
論点がそれていったり、互いの主張がかみ合ってなかったり、
そういう紆余曲折をたどりながらも、それぞれの主張は次第に浮き彫りになっていく。

議論されていることに、明確な答えなどはもちろんない。
明確な目的のために論じ合う会議や討論会などではない、家族の会話なのだ。

誠の語る理想主義的な社会主義は、言葉だけ聴いているとあまりにも正論だ。
しかし、家族とのやり取りを重ねるうちに、現実との乖離も見えてくる。
父への反発。戦時中に拘留されたことへの恨み。
弟への忠告すら、どこか観念的なものとして聴こえてしまう。

いま、どう何をするべきか。
今日のパンは誰が手に入れてくるのか。

自分の属する組織のストライキさえ、部外者である弟の方が情報を得ていたりする。

一方の恋愛においても、誠のせいへの想いの誠実さは疑うべくもないが、
相手の気持ちさえ確認できれば、すべての障害を乗り越えられる、と信じるある種の幼さゆえ
せつが答えない理由は、誠よりも柴田に惹かれているからだ、ということに考えが及ばない。

どこからか食糧や情報を手に入れてくる弟の欣二は、
しかし、自分自身の鬱屈をもてあましている。
抱え込んでいるその鬱屈を、不信を、虚無感を、どこへぶつけていいかわからないまま、
繁華街の雑踏を彷徨っているらしい。

家族を思う気持ちはまぎれもないが、その鬱屈ゆえに茶化したような態度や言葉となる。

双葉の言葉は、真摯さも含め父である柴田の論の展開とよく似ている。
人を、日本人を信じる、という想い。
現在の自分の「弱さ」や「低さ」を克服し、
よりよく生きていこう、あるいは、よりよく生きていけると、そう信じる姿は
少女らしい純粋さと聖母めいた豊かさを感じさせる。

その頬にある無残な空襲による傷跡が、いっそう彼女の聖性を高めるように見えた。

そして、父である柴田。

戦時中でさえ、この戦争は間違った戦争だと、そう断言した柴田だが、
それでも、「負けたくないと思った」と、彼自身の戦争責任を語る。


そうやって強い言葉をやり取りする様子を観ていて思うのは、
論を違えてはいても、やはり家族だ、ということだた。
影響され、あるいは反発し、それらがすべてひとつの土台の上で展開している。

その家族の中で、終戦の日に毒をあおった長女は何を想っていたのか。

長女をはじめ、柴田も、誠も、欣二も、双葉も、
この戦争、この時代からさまざまな形で深い傷を負わされている。

彼らのやり取りに、ともに暮らす叔父の三平も
欣二に連れてこられた長女の元同級生でダンサーの圭子も、
そして、兵役から戻った内縁の夫と気持ちがすれ違うせいも、
先に登場した柴田の教え子や大工のかみさんも、
終盤に登場する浮浪者も、やはり同じように戦争によって心身に傷を負ったのだろう。

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3時間弱の芝居なので、間に一度休憩がある。
その休憩時間に外へ出た。
湿度は高いがひんやりした夜気が頬の熱気を冷ます。

ロビーなどはない、こじんまりした劇団の稽古場兼アトリエ。
でも好きな劇場だ。そう思うのは、きっとここで何と出会い何を感じたかによるのだろう。

やたら理屈っぽくしゃべってばかりの戯曲が、なんでこんなに面白いんだろう。
そんなことを思う。
2度目なので、後半はますます盛り上がると知っているため、いっそうテンションがあがる。


後半の議論も、最初は柴田と誠のやり取りが中心であるように見える。

しかし、観ているうちに欣二の存在感がしだいに増していく。

お前は黙っていなさい、と誠との議論に熱中する父に再々言われながら、
彼は議論に口を挟み、人々の周りを歩き回る。

舞台の奥へ、手前へ、上手へ、下手へと。
それだけでなく、ときには観客席の通路を辿り、観客と同じ目線でその議論を聞いたりもする。

無頼な振る舞いをしたりすさんだ言葉を口にしてみせる彼からは
絶望というより透明な明るさを含んだ不信とそこからくる虚無感が感じられる。
そして、その中にうずまくどうしょうもない苛立ちがある。

「三半規管をよこせ!」という。
三半規管を失った蛙が、水からでようとして水底へ向かっていってしまうように、
あるいは逆に、溺れ死のうとしたのに水面へ出てしまうように、
進むべき方向を定められないことが何よりつらいのだと。

そういう欣二の様子は、誠の見せる迷いのなさより切実さを感じさせた。

ラストシーンでは、舞台中央で慟哭する彼に、観る者の心情が重なるように思えた。

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帰り道。

静かな住宅街を歩きながら、いま観た舞台についてつらつらと考え続けた。


汲んでおいたはずの水がなくなっていたことや、なけなしの畑が荒らされていたこと、
犬の吠える声が聞こえたりしたことが、後半の浮浪者のくだりにつながったり、
前半の叔父の言葉どおり、ある人が突然手斧を振り回したり、
そういういくつもの伏線が物語をいっそう面白く感じさせていた。

登場人物の互いに向けた感情の表現なども見応えがあって、
テーマ性だけでなく、物語としてもよくできた戯曲だ。

しかし、演じる方々にとっては、たいへんな作品であろうということは素人目にもわかる。

膨大なセリフやさまざまな感情の動き、関係性。
それを余さず提示する熱量と技量に魅了された。(←駄洒落みたいな文だ)


三好十郎が書いた「「廃墟」について」」という文章を、戯曲と一緒に青空文庫で読んだ。
その中にこんな一文がある。

―― 実は、理智的理論的な追求だけでよければ、問題をもっと前の方へ押進めて展開することは、私にも出来たのだが、私の胸の中に在る一人の作家としての責任と言ったようなものが、私をしてそうさせなかった。 ――

ここに書かれているとおり、3時間弱の間に思想的な結論や理論的な方向性は示されない。
しかし、安易な結論を提示しないその誠実さは、
作品にある種の広がりと普遍性を与えたように思える。

わかりやすい結論などなくても、いや、ないからこそ、
観た者にある種の充足感を感じさせる、がっつりと歯ごたえのある舞台。

さまざまなきな臭いことが起こっているこの時代、この夏に、
これを観ることができてよかった、と思う。