平成26年8月2日19:00~、紀伊國屋ホールにて。

作・演出/鴻上尚史

出演/大高洋夫、小須田康人、藤井隆、伊礼彼方、玉置玲央

Message From KOKAMI Shoji
そんなわけで、17年ぶりに『朝日のような夕日をつれて』を上演することにしました。
お世話になっている紀伊國屋ホールさんの50周年に相応しい演目はなんだろうと考えた結果です。今から29年前、初めて紀伊國屋ホールで上演した作品でもあります。 いったい、どんな『朝日~』になるのか、僕自身が一番、わくわくドキドキしています。
大高は「おもしろそうじゃん」と言い、小須田は「やるんでやんすか。そうでやんすか」と応えました。藤井隆さん、伊礼彼方さん、玉置玲央さんの素敵な三人を迎えて、2014年版の『朝日のような夕日をつれて』は、夏、開幕です。

あなたを待つという事。
あなたに待たれるという事。
待つことは幸福なのか。
待つことは不幸なのか。
待つことをやめるのは難しい。
しかし待つ事を忘れるのはたやすい。
つれないそぶりを見せるのはたやすい。
つれないそぶりをやめるのは難しい。
待たれている事は楽しい。
待たれていない事は恐ろしい。
ゴドーは一体どんな顔で登場すればいいのか。
人生をつぶすのはたやすい。
暇をつぶす事は難しい。
ルービック・キューブを忘れる事はできる。
しかし宇宙を忘れる事はできない。
愛を信じる事は可笑しい。
手ざわりを信じる事は悲しい。
淋しさは愛に似ている。
理解は別れに似ている。
連帯は孤独に似ている。
救済はナイフに似ている。
夢は髪の毛に似ている。
そして「朝日のような夕日をつれて」は何者にも似ていない。
(公式ホームページより)


この作品は、第三舞台の旗揚げ公演として1981年に上演されて以来、
今回が7回目の、そして17年目の上演だそうだ。


傾きかけた玩具会社の新製品開発に向けた、社長と企画部長のやり取り。
そして、開発部門と調査部門それぞれの担当者のやり取り。

そこに紛れ込んでくる『ゴドーを待ちながら』の世界。
社長と部長ではなくなった二人の男が、ただひたすら「待つ」ために、
時間つぶしの遊びを続ける。

『ゴドーを待ちながら』というのは、有名な不条理劇のタイトル。

2人の男がただひたすらにゴドーを待つ。
ゴドーの素性も待つ理由もわからないまま。
少年が現れて「ゴドーさんはこないよ」と言う。
それを聞いて、「じゃあ帰ろう」と言いながら、二人の男はそのまま待ち続ける。
……というような話らしい。
実は、観たことも読んだこともありません。聞きかじりの解説でゴメンなさい。

しかし、現れないはずのゴドーが、
この舞台ではやってきてしまう。それも2人も。

どちらがホンモノのゴドーか。
あるいは、彼らが待っているのは他の誰かなのか。

社長の娘 美代子の名前が何度も登場する。
みなが、彼女を待っているのかもしれない。

詩的な言葉の群唱。
絶えず入れ替わる現実と虚構。
たくさんの言葉遊びや時事ネタ。

そして玩具。
何が流行るのか、人間が求めているのは何か。

降ってくるボール。
巨大なフラフープ。
美代子とのデートでの瑣末な記念品。

絶対に傷つけない他者。
そして、回帰。

第三舞台時代から何度もこの舞台に立ち続けている大高さん、小須田さんのお2人と、
お笑いやミュージカルや小劇場など異種格闘技的なキャストの魅力。

そして、新たに書き直された戯曲の中の時代性。

笑いやカッコよさを見せる物理的な仕掛けもいろいろあるけれど、
圧倒的に印象に残ったのは、俳優たちの発する言葉・言葉・言葉だった。

初演の際の衝撃は如何ばかりだったことだろう。
……そんなことをふと思った。

上演を繰り返されることで、洗練された部分もあるだろう。
そしてきっと、変わらないものも。

気になって、過去のバージョンの戯曲を買って帰った。
読んでみると予想以上に、骨組みは変わっていないことに気がつく。

けれど読んでみていっそう、変わっていることも変わっていないことも含めて、
いま改めて上演することの面白さを感じた。
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