六七日死後42日目変成王(本地仏は弥勒菩薩)の6審である。
弥勒菩薩は釈迦の次に仏の位につくと約束されており、釈迦入滅後56億74万年後の世界にあらわれるとされており釈迦の救済からもれた人々を救う未来仏とも称されている。
梵名はマルトレーヤ。

弥勒菩薩は現在は「兜卒天」にあって人々を見守っており、こうした伝承に基づいて発展したのが「弥勒下生」信仰である。
 上生信仰もあるが、日本ではなかなか未来という感覚が貴族たちには受けいれられず、

「いつかは救いに来てくれる」という「下生信仰」だけが発展した。


 貞観(今昔物語では延喜とあるが貞観が正しい)の御代であった。
「西三条の右大臣」(みぎのおとど)=藤原良相と呼ばれる人がいた。


 その大臣の息子・大納言左大将常行はまだ若く、冠(かうぶり)も付けずにいることが多かった。

 常行の姿は美しく、また、女を愛することにかけては誰にも負けていなかった。

従って常行は、夜になると家を出て東や西に女を訪ねて行くのをつねとしていた。

 夏の蒸し暑い夜のことである。この若殿、最近は東の京に愛人がいて、せっせと通うのを

両親が見ており、「夜行にあう恐れあり」と

母親に叱言をいわれていたので、この夜は母親らの目を避け、警護の侍の馬を借りて「小舎人童」、「馬の舎人」らをつれてひそかに夜遊びをしようとたくらんでいたのである。


 ㊟小舎人童=こどねりわらは。近衛の中将や少将などが召し使う少年。

 ㊟馬の舎人=うまのとねり。馬の口取り。

 大内裏の南面、美福門の前を行くと東の大宮の方角より、多くの人が灯をともして、なにやらののしりあって歩いてくる。
 漆黒の闇の中、星ひとつ見えない不気味な夜、松明のあかりだけがなんとも異様であった。
 若殿はこれを見て「誰かがくる。どこか隠れるところはないだろうか」という。

 

 小舎人童は「今日の昼、神泉苑の北門が開いているように見えました。そこにしばらくかくれていらっしゃれば行列は過ぎてしまいましょう」というので、若殿は喜んで「そのようにしよう」と、神泉苑を北の門から入り、馬からおりて柱のもとにかがんでいた。


 その時、灯をともした者共が次々に通り過ぎてゆく。「何者たちであろうか」と戸を細めに開けてみると、常行はたちまちそれらの者たちが”鬼”であることを覚った。

 常行はとっさに地面に腹ばいになって、「百鬼夜行」の通りすぎるのを待った。
 肝をつぶしながら、それでもじっと待っている常行の耳に次のような声が聞こえてきた。
 「ここに人の気配こそすれ、なぜかかすめとることのできない。不思議なことよ」と一匹の鬼が言う。
 また一匹、走り寄る鬼がいる。
 常行は、今はこれまでと覚悟をきめ、鬼は近くにまでくるがそのまま走り去った。
 このようなくり返しがあって、だれかが叫ぶ。
 「どうしてかすめとれないのか」と批難するものもいる。
 「どうしてもかすめとることができない不思議なこともあるものよ」
 「どうしてかすめとれないのか」と言いながら、前の鬼と同じように近くに寄ることもできずに去ってゆく。
 さらに鬼の一匹が「かすめとることができぬ理由がわかった。尊勝眞言のおはしますなりけり」という。


  ㊟尊勝眞言 空海がもたらした眞言呪文の一つで、加持祈祷にさいして用いられた。


 とたんに数百の松明(鬼火)が一斉に消えて、鬼たちが東西に走り去る音のみが聞こえてきた。
 それでも常行たちはしばらくの間生きた心地もしない様子でブルブル震えていた。
 やがて、常行は女の家に行くことをやめ、呆けた顔をしながら西三条の屋敷に戻った。
 常行は家に帰ると曹司(㊟自分の部屋)に入って、高熱にとりつかれながら数日間うなされながら過ごした。
 見舞いにきた乳母(めのと)は、「このたびの災難は西三条の若殿が『忌夜行目』にもかかわらずに外出したことが第一の原因である。しかるに200~300集まった妖怪たちが行進をはじめて間もなく、一匹もいなくなったのは、乳母の兄である阿闍梨(㊟あざりともいう。弟子を教導し、手本となるべき高僧のことをいう。)が書いた護符のおかげで、だれ一人生命を奪われることなく終幕を迎えた。まことに祝着のきわみ。」と申し述べた。

 

 その時、暦をみると、先夜は確かに夜行を忌む日であった、という。


 この常行の「百鬼夜行」遭遇は当時京の人びとに大きな衝撃を与え、事件は今昔物語に収録された。(今昔物語集 本朝仏法部巻14第42話)

なお、藤原師輔・右大臣 九条殿 牛車で夜間外出したさい、やはり「百鬼夜行」に出くわしたものの尊勝陀羅尼を唱えることによって難をのがれた話は「大鏡」中巻(右大臣師輔)に収録されている。