火刑または火炙り

 徳川幕府は、慶長17年に「法度書」、元和元年には「公事方法定書」を制定した。
 また寛保2年4月、徳川吉宗は、寺社奉行水野越前守、町奉行石河土佐守、勘定奉行水野対馬守の3奉行に命じ、「御定書百筒条」を発令させた。その67条に「出火咎之事」、68条に「火附御仕置乃事」がある。
 江戸時代以前には、他の犯罪でも火刑に処せられることがあったが、「御定書百筒条」では火附けは引廻しの上、浅草、品川において「火刑」とされた。「引廻し」は属刑(附加罪)であり、かならず附いた。
 「火炙り」に用いる罪木は、栂材5寸角長さ1丈3尺のものを、地下に5尺くらい埋めて垂直に立てるので地上では8尺くらいの高さの柱となった。ついで太い青竹を曲げて作った直径2尺5寸くらいの竹ノ輪を用意する。7尺の竹2本を一緒にして、その中央を罪木の柱の頂あたりに、荒縄で縛って止める。その竹の両端を下方に曲げて逆U字型にする。さらにその端を、柱に通した竹ノ輪を釣るすため、輪の2か所で縛りとめるのである。
 柱と竹ノ輪には、泥と土を塗り付け、できるだけ焼けない工夫を施した。柱の根元には細い薪15、6本を縄で束ねて罪人の踏み台とした。

 竹ノ輪はだいたい罪人のふともものあたりを巻くように、水平に釣られているが、その輪の廻りから3尺位離れたところに燃料用の薪を2,3束ずづ輪形に立てかけその高さを輪のあたりにまでつみあげた。罪人を入れる入り口を開けておき、あとで塞ぐ。「引廻し」の罪人が刑場に到着すると下働きの非人が6名がかりで馬から囚人を降ろし、縛ったまま罪木の下の薪の踏み台の上に立たせた。首、高股と足首を、罪木柱に縛り付け、両上膊部を吊り輪に縛る。
 縛った縄にも泥を塗って焼けにくくする。縛り終わると入り口を薪でふさぎ、太い薪と茅をまぜて八方から立てかけ、さらに茅を吊り輪の上から覆ってゆく。
 罪人は外からは見えなくなるが、顔のところだけ外から覗ける。薪は210把、茅は700把を使用するので、まるで「みのむし」のようにみえる。罪木から右前方、12,3間(一間は約182㎝)のところに検視与力が床几を据えて陣笠、野羽織、野袴の姿で腰かけ、その後ろに草履取り、若党、槍持、挟箱持ちが控える。さらにその右方には、副検視役の与力が同じ数、同じ配置で控える。左前方には下役同心、弾左衛門、手代非人差配、小屋頭等が居並ぶ。

 矢の者、棒の非人等は四囲の警護にあたる。用意が終わると、弾左衛門の手先が検視の前に進み、「支度よろしき」旨を言上する。検視は下役同心に指図し、同心は罪人に近づき名前を改めた後、入り口を薪茅で塞ぐ。検視は弾左衛門に「火を移せ」と命ずると非人たちは茅三把をそれぞれ手に持ち、火を点じて風上より茅に火を移す。
そして筵で火をあおり火勢を強める。みるみるうちに火勢が強まり、薪に燃え移り、炎が燃え上がる。まるで「地獄絵図」である。


 切支丹宗徒に加えられる刑罰は多分に加虐的なものが多い。竹矢来で取り囲まれた広い刑場に「ころばない」切支丹宗徒老若男女を引き出し、全裸にして蓑を着せ、笠をかぶせ、頭上から油を注ぐ。蓑に火をつけると恐ろしい勢いで火は燃えさかり宗徒たちは、狂い回り、転がりまわる。そのありさまは、まさに「蓑踊り」にみえる。

 罪人たちが倒れると、赤鬼、青鬼の〝獄卒たち〝(いや獄吏)は、遠くから突棒、刺又、熊手などで罪人たちを突き起こし、絶命するまで責めさいなむ。

 鈴ヵ森刑場では、海からのよこなぐりの烈風により足がやかれて気絶するが意識は間もなく戻り気絶と蘇生が繰り返されそのたびに猛獣の叫びに似た悲鳴が遠くまで聞こえたという。
 火勢が強く、囚人がすでに焚死した、とみると、獄吏たちはもえのこりの薪や茅をよけて、
さらに茅四把ずつに火を点じ、罪人を中心にして左右にわかれ、一人は鼻、一人は陰嚢を焼く。(女は乳房を焼く)「とどめ火」という。死体はそのままにして三日二夜さらしておく。
 

 奉行所の負担用材費3両2分2朱。銀7匁4分5厘。
 弾左衛門が負担する用材費は銀10匁6分。
 いずれにしても「第一の地獄等活地獄」や「第二の地獄黒縄地獄」に匹敵するか、それを上回る残虐性が見られる。
 ところで慶応年間、相州三島宿で残酷な火刑ストリップ・ショウがおこなわれたことが記録に残っている。「原のおせき」という妙令な美女が衆人環視の中で白昼河原で焼き殺された。

 火炙りの刑に処せられたおせきは火付けの罪状で捕えられ、みせしめのため全裸にされて縛られ、三島河原の川原に引き出された。
 厚さ4寸、直径1尺6寸の廃品であるひき臼を河原に置き、中央の軸穴に太柱を一本立て、これにおせきを裸体のまま縛り付けたがおせきのたっての願いにより、下腹部に半紙一枚を張り付け、周囲に茅をおいて焼きたてた。
 近くの村から見物人が押しかけて境川堤防のこの光景を見物した。三島神社のお祭りより賑やかな人出であったという。

 ① 「日本書紀」巻第14雄略天皇の2年、密通した二人を仮に作った桟敷状の床において焼き殺した、という例がある。
 ② また同「日本書紀」巻第19欽明天皇の23年に〝歌〟に偽りがあったとして死亡した詠人の子供2人が親の代わりに火刑に処せられた。

 ③ 幕末の江戸町奉行吟味与力 佐久間長敬の著に「拷問実記」があるが、それによると、火附盗賊改め加役の御先手頭中山勘解由が天和3年(1683)6月、火附け7人を捕えて厳しく拷問したが、鶉(ウズラ)権兵衛という侍のみが白状しなかったので権兵衛を鈴ヵ森で「焙烙」(ほうろく)の刑に処した。権兵衛は口から火を吹いて「勘解由」「勘解由」「勘解由」と三回叫んだところで頭の鉢が割れたという。これは「火頂責」(かちょうぜめ)と呼ばれる刑で、〝すさまじさ〟ではこの刑の右に出るものはない。
④ 織田信長は一向一揆や門徒一揆をしばしば火責めで焼き殺している。
 天正7年(1579)、信長に叛いた荒木村重を尼が崎城に攻め、荒木は毛利を頼って逃げ延びたが、残された家来や一族は、女388人、男24人あわせて412人が四つの家に閉じ込められて火を放たれ焚殺されている(「信長公記」)
 信長は比叡山を焼き打ちして多くの山僧を焼き殺している。


                                            つづく

見所︙東京監獄跡、箱根関所、小田原城、板橋刑場、小塚原刑場、鳥越刑場、

    伝馬町牢獄、鈴ヵ森刑場(獄門台、首切場、拘首台の跡地)
参考文献

□日本刑罰史 名和弓雄 雄山閣

□図説日本拷問刑罰史 笹間良彦 柏書房

 

 

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