三七日-死後21日目

宋帝王(そうたいおう)の三審。

 

総対応の本地仏は「三人よれば文殊の知恵」という諺にもなっている「文殊菩薩」である。

 

文殊菩薩の仏像を見ると、百獣の王とされている獅子に載った青年像が多い。

普賢菩薩とともに釈迦の脇侍(わきじ)として重要な尊格である文殊菩薩は、釈迦の入滅後

(死後)に生まれた実在の人物ともいわれている。

お釈迦様の智慧を象徴する仏とされ、その知力でもって人々を導いてくれるという。

 

三審では、妻や夫という身の上でありながら、道をはずれた愛欲に溺れ、道ならぬ性行為を

したものが裁かれる法廷である。

しかし、すでに三審に届いている調書で明らかになっている不倫や強姦、他人の妻と交わった者などは獄卆たちの引く「火の車」に乗せられて第3の地獄「衆合地獄」に送られる。

 

この地獄は、五戒の一つである邪淫の行為をしたり、他人の妻と交わった者が堕ちる地獄である。

この地獄には全山鉄(ぜんざんてつ)と呼ばれる鉄の山が向かい合ってそびえ立っており、

獄卆が罪人たちをここに追い込むと、突然山が両側から迫ってきて、罪人たちを押しつぶして砕いてしまう。

さらに、鉄の山が空中から落ちてきて罪人を打ち砕いたり、平たい石の上に罪人を縛りつけ、

その上から巨大な石を落下させたり、鉄の臼に入れた罪人を、獄卆が餅をつくように鉄の杵

でつき砕いたり、灼熱の銅が流れる川に罪人を投げ入れるなどの拷問が行われている。

 

また獄卆たちは、男の罪人を刀葉の林に置き、樹々の上にはみめうるわしく着飾った女性

を置く。美しい女性たちは思い入れのある身振り、手振りで手招きしている。

もともと淫乱の気持ちのある男の罪人たちは、たちまち誘惑に取りつかれ、さっそく美女たち

の元へ行こうと木を登り始める。 そしてその途中、カミソリのような鋭い葉に五体を切り裂

かれ、人によっては内臓に達するまでの重傷を負い、激痛に耐えながら、ようやく木の上に

達すると、なんと木の上の美女たちは、いつの間にか地上に降りているではないか。

 

美女たちは口々に

「あなたを慕って降りてきたのに、どうして私に近づこうともせずに、そして私を抱こうとも

しないのですか」と恨めしそうに語る。

 

ふたたび欲情に駆リ立てられた男の罪人たちは、刀の葉に身体を切り裂かれながら樹々を

上下する。

これが幾度となく繰り返されるが、すべて罪人たちが持っている邪欲の投影にすぎないのだ。

 

あさましや つるぎのえだのたわむまで いかなるつみのなれるなるらん

                                        金葉集 和泉式部

 

衆合地獄には、かつて同性愛など、性的指向が同性に向いた行為をした者が堕ちる

「多苦悩処」という小地獄があったが、昭和年代(第二次世界大戦以降)に冥界の三審に

おいては”不起訴”、もしくは”起訴猶予”処分が定着している。

 

その他、室町時代に中国から伝来した「血の池地獄(血盆池地獄)」論には、もともとは

血をけがれとみなした女性差別思想が背景にあり、本来、日本には血のけがれという観念

はなく、逆に”血には豊穣をもたらす”と解釈されていた。

それが9世紀に入ると「月経」の時には神事を避けるべきだと忌まれ、10世紀には貴族女性

の間に浸透した。13世紀になると山岳信仰の広まる地域で”女人禁制”が一般的となり、

貴族女性の間では「女性は障りが多く成仏できない」という考えが広まった。

こうした血のけがれと女性を不浄とする思想は10世紀以降(日本では室町時代)に中国から

伝来した「血盆経」の深化が一因であった。

一方、血のけがれを理由に地獄に堕ちた女性を救済するための信仰も発展した。

15世紀、寺院では「血盆経」を池や川に投げ入れ、亡くなった母親や近親女性などを追善供養することも積極的におこなわれた。

 

 

<見どころ>

各地の血の池

① 富山県立山町立山

   「血盆経」を池に投げ入れる

 

② 青森県むつ市恐山

   「血盆経」と記された護符を投げ込む

 

③ 大分県別府市別府温泉

   豊後国風土記や万葉集に記された血の池地獄がある

 

④ 千葉県我孫子市正泉寺

   北条時頼の娘、法性尼の開基。応永年間(1394-1428年)法性尼の霊のお告げで

   「血盆経」を得た