さんざん苦労して、ようやく対岸(彼岸)に渡ることが出来たとしても安心はできない。

衣領樹(えりょうじゅ)という巨木の下には奪衣婆(だつえば)=懸衣嫗(けんねう)と

懸衣翁(けんえおう)の夫婦が住んでおり、川を渡ってくる死者を待ち構えている。

 

懸衣翁は死者の着ている衣服を剥ぎ取り、その衣服を衣領樹の枝にかける。

濁流に衣服を流されたものは、衣服の代わりに皮膚を剥がされ枝にかけられる。

恐ろしい話だ。

 

その際、生前の罪が重いほど枝はたわむ、そしてその結果は第二法廷(初江王)に

証拠として提出されるのだ。

 

ところが、こうした「三途の川」の話は、中国の経典には一切載っていない。

なぜならそれは日本独自の「地獄観」であり、中国のそのものではない。

 

しかし、「往生要集」にはまだ載っていない。

平安後期に成立した「地獄十三経」にようやく記述がみられる。

 

倭の五王(讃・珍・済・興・武)の頃からであろうか”六文”を”渡り賃”とする「渡し舟」方式が

採用され、「有橋渡橋」完成後は、「渡し舟」も廃止された。

その代わり、死者には紙に描いた貨幣の絵が渡されるようになった。

 

死者から衣服を剥ぎ取って衣領樹かけるという”儀式?”もなくなり、この一連の作業をしていた「奪衣婆」「懸衣翁」夫婦の仕事もなくなり、失業した夫婦は姿を消してしまった。

「気の毒?」ではあるがいわゆる「行方不明」である。

 

三途の川の川岸には無数の「賽の河原」がある。

幼いうちに命を落とした子供たちが、わずかな期間しか生きられなかったという理由で、

親を悲しませた”罪”によって集められている。

栃木県那須町に残る賽の河原、または新潟県佐渡ヶ島の河原、青森県恐山などの河原には

必ず地蔵菩薩や積み重ねられた小石がある。

これらの場所の多くは古くからの埋葬地であり、賽が塞、つまり「この世」と「あの世」をつなぐ

境界(結界)と考えられ、「賽の河原」として特定されたのではないだろうか。

地蔵菩薩(閻魔王の本地仏)も現世にのこされた親たちから「我が子を救ってほしい」と頼まれている。

しかし「三途の川」を渡らせてもらえずに小石を積んでる子供は、誰が誰の子であるか少しもわからない。

そこで親たちは考えた。

生前に我が子が愛用していた、そして我が子の匂いが染み込んだ”よだれかけ”を地蔵菩薩に託し、この匂いの子が我が子なのだと発信しているのである。

道端に無数にある地蔵を見てみると、その胸にはなるほど”赤いよだれかけが”あるではないか・・・

 

さて、閻魔王の昨今の「閻魔帖(鬼籍簿)」には、最近多発している交通事故による死者、そして難民たちの不慮の死等々、審査を待っている事案が実に多い。

場合によっては数人~十数人、多い時には数十人を一括して裁くこともあるという。

「なんとかして生きなさい!」

閻魔王の悲痛な声が聞こえてくるようだ。

 

(補足:三途の川 その2のなかに「ミスター・タナカ」とある日本人は「タナカ・カクエイ」氏のことである。)