85●銀座、六本木、新宿

 

銀座に行けるのだったら銀座で飲んだほうがいい。勉強になる。世界が広がる。自信になる。

夜遅くなると三〇分もしないうちに他の店に行こう、といい出すお客さんが出てくる。関係ない私まで、「君も一緒に行こう」と誘ってもらえるから、高級クラブにも行ける。銀座の会員制バーの客というだけで最初から信頼されている。

つかおうと思えば一人で一晩で数十万円つかえてしまう。だから長く続かず、銀座から姿を消すお客さんも多い。

店で働いている人は何十年も同じなのに、客は十年でガラリと入れ替わるようなことが普通にある。

店で働いている人は刺激的で緊張感のある毎日を送っているので気合がキープでき、なかなか老けない。

料理人さえ、料理をよりおいしく食べてもらうためにシミを焼き消したり、エステに通っている。

会員制バーといっても会員証があるわけではなく、顔見知りだけのバーということだ。カウンター席に座っている常連客がみなママと知り合いというのが会員制バーだ。

ママの知り合いなら安心して付き合えるということになる。変な客や下品な客、ケチな客はママに嫌われるから居づらくなり、早々とこなくなる。

ママは客全員から信頼されているから芸能人や有名人のお客さんも多くなる。高級クラブのホステスを連れてくるお客さんが多いから、美人もたくさんくる。会員制バーに通っていると美人と飲める。

派手に振る舞ったり、大金をつかう必要はないが、たまには花束を送ったり、無理して数万円のシャンパンを注文すると見直される。

会員制バーには、そういうことを一度はするようなお客さんが集まる。空気を読めない人もいるが、陰口をいわれている。有名人目的にくる人は多い。

花束やシャンパンは年に一度で十分で、私もそういう無理を二年か三年に一度くらいする。

礼儀正しく、欲しがらず、毎回請求される一万円か二万円か三万円をちゃんと払っていれば嫌がられることはない。

三万円以上請求されるのは誰かを連れていったり、シャンパンを注文した時ぐらいだ。

無理せず通ったから私も相当長い客になった。

みな最初は誰かに連れてこられる。私は二十代からすんなりと会員制バーの常連客になることができ、夢のような思いを何度もした。

経済成長が終わり、人口が減り、今はどこも知り合いだけの営業では難しくなってきている。ホームページやフェイスブックをチェックしてよさそうなバーをみつけ、そこから広げていけば紹介制の会員制バーでも入れるようになっていく。

一度しかない人生だから、せっかくだから銀座で飲む。

どうせもうすぐ死んでしまうのだから、銀座も経験しておく。

次から次に新しい世代がやってきて、古い世代は早々押し出されるように行き場を失ってしまうから、居場所があるうちに銀座で飲む。

過去も未来もみれないから、今の銀座をみておく。一生銀座で飲まない人がほとんどだから、銀座で飲んでみる。

以前は銀座、六本木、新宿の業界バーでそれぞれ顔ぶれが違った。

いつもどこかの街の居酒屋で飲んでから銀座に出た。

銀座はほとんどの店が一時には閉まるので、それから六本木に出た。六本木が盛り上がっていれば朝まで六本木で飲み、そうでなければ新宿ものぞいた。新宿には朝までやっている業界バーがいくつもある。

銀座は芸能人や野球選手、直木賞作家、政治家が飲んでいて、六本木は広告関係、芸能人、デザイナー、大手出版社の編集者、新宿は出版関係、映画関係、純文学の作家と遭遇できた。どこで誰に会えるか、毎晩楽しみだった。

一九九五年に赤塚不二夫先生を取材した。

「赤塚先生のような飲み方に憧れて新宿で朝まで飲んでいるのですが、八十年代のような熱気はもうないように思えます」

「やめたほうがいいよ。もう新宿には何もないよ。新宿は死んだよ」

本で読んだ赤塚先生が飲んでいた頃の新宿とは確かに違い、賑やかに飲んでいる人や、酔っ払いの有名人もいなくなった。

しかし、取材をした時の赤塚先生は六〇歳だった。六〇歳は何をしても楽しいという年齢ではない。

二十代だった私は銀座のクラブが楽しくて仕方なかった。お金が入ればポルシェビルへ飲みに出掛けた。

菅野美穂にそっくりな人がいた。普通、有名人に似ている一般人はそれほど美しくないが、その人は菅野美穂と同じくらい美しかった。歯並び以外は菅野美穂とそっくりで、私は、

「あなたは菅野美穂なの?」と本気で聞いた。

「違うよー」と笑うその笑顔も声も話し方もしぐさも振る舞いも菅野美穂とそっくりだった。私は菅野美穂の大ファンなのだった。

銀座のクラブは客も内装もトイレもホステスもバーテンダーも酒もグラスもピアノも、何もかも華やかだった。

今は新宿の業界バーで夜中に飲んでいると、銀座の女が流れてくる。

以前はそんなことはなかった。二〇〇〇年を過ぎたあたりから六本木や銀座でしか会えなかったような人たちの姿を新宿でも見掛けるようになっていった。

時の流れで、不況になり、どの業界も景気が悪く、徐々にみなが新宿に集まるようになっていった。新宿は安い。銀座と六本木は高いが、新宿ならどの店も三千円で飲める。みんなが新宿に集まっているから新宿に行く。新宿のほうがいろいろな人に会える。

銀座で飲んでいても、店が終わると、

「新宿行こう!」と銀座の女たちがいうようになった。それなら最初から新宿で飲んでいればいい。新宿なら長居しても店の人に嫌がられない。

明らかに新宿のほうが盛り上がっている。

以前は、銀座の女のプライドが高かった。新宿とは違う、とはっきり宣言する銀座の女が多かった。銀座でしか飲まない、ダラダラ飲まず、銀座で飲んでそのまま家に帰る、と決めている客も多かった。

銀座のバーの家賃より新宿ゴールデン街の家賃が高くなったりし始めた。

以前の方がそれぞれ違った雰囲気を味わえて楽しかった。深夜にタクシーに乗っていろいろな街をハシゴする楽しさがあった。五万円もって銀座、六本木、新宿を朝までハシゴした。

一九九十年代の六本木はすごかった。

仕事を終えた業界人が夜中になるとバーに集まり、酒を飲む。

話がいつまでも終わらず、朝になり、朝になっても話が終わらなかった。一流の仕事をする業界人だちが納得いくまで酒が飲め、納得するまで語り合うことができるのが六本木だった。

二十代だった私は六本木独特の雰囲気にしびれ、金が入る度に六本木の業界バーに通った。

どこも綺麗な店で内装や照明にこだわっていて華やかだった。銀座と違って華やかというより、ハイセンスで、有名デザイナーが設計に参加する店が多かった。壁にも売れっ子画家の描き下しの絵が描かれていた。

どの店も常連客しかおらず、店主も客がいるかぎり店を開けていた。広告業界、出版業界、芸能人、デザイナー、イラストレーター、作家が集まる店がいくつもあった。みな酒が強かった。

私は大した仕事をしていないので、一流の仕事をする彼らからいつも少し離れて、一人で黙って彼らの話に耳を傾けていた。

彼らと同じ空気を吸っているだけで興奮し、ごくたまに声を掛けられ、もう一軒連れて行ってもらうようなことがあった。

本で読んで知っている憧れの人たちが激論を交わしていた。何時間も朝まで真顔で話し合っていた。すごいなー、と思った。

今とは飲み方が違う。みな、強い酒をボトル単位で飲み、翌日はボロボロの二日酔いで仕事をした。

今の二日酔いは体調不良だが、一九九十年代の二日酔いは完全燃焼だった。迎え酒に冷たいビールを飲む人がたくさんいた。

憧れのイラストレーターと人気俳優がカウンターで二人で飲んでいた。私は少し離れて一人で飲んでいた。朝四時になっても六時になっても話が終わらない。ママは黙って二人に酒をつくり、私にもつくってくれた。

サラリーマンだった私は十時から会社なので九時に帰ったが、最後まで彼らをみていたかった。後日聞いたら、二人は午後二時過ぎまで飲み、最後は喧嘩別れとなり、翌日は二人とも何も覚えておらず、また二人で同じ店で飲み始めたという。そういう光景をまじかでみることができるのが六本木だった。毎晩どこかの店で有名人たちがそういう飲み方をしていた。一九九十年代の六本木では、多忙の四十代の売れっ子たちが昼まで本気で飲んでいた。

私はいつもひどい二日酔いで会社のトイレにこもり、気絶しそうになりながら仕事をしていたが達成感のような満足を感じた。

そして二日酔いの労働を終えると燃え尽きたように眠った。