●映画の整理

 

白洲正子は、

「すぐれた作品は一行読めばわかる。わかるものはわかる」という。

なんとなくいっていることはわかるような気がする。特別に面白い本は読む前から面白い。手にした瞬間から読むのが楽しみで、興奮しながら読んでいる。

DVDも同じようにみる。

ある程度の年齢になると興奮がおさまってしまう。名作は一通りみてしまったから、新作に期待するが、名作といわれるような新作はなかなかあらわれてくれない。

どうせいつまらないと思いながらみていく。

面倒くさいから最初の十分程度しかみない。死ぬまで覚えているような名作なら最初の十分で引き込まれる。

最初から早送りしていても名作ならばそれでも気づく。前にみた名作を見返そうと思ってみたい場面まで早送りしようとすると、必ずどこかで早送りを止めて、見入ってしまい、結局また最初からじっくりみてしまう。

予告編をみても、面白くないのがわかる。

テレビや雑誌ではいつも新作映画の面白さを紹介しているが噓が多く、彼らは仕事で新作映画を紹介している。

原稿を頼まれて作品をけなす人は少ない。そんなことでは仕事にならない。

新しい作品をみんなで協力して面白そうに紹介しなければ仕事にならない。ほとんどの新作映画は数年後に滅多に借りられることのないDVD作品となる。

 本も同じで、どんな本でも面白いといおうと思えばいえるが、実際は古典的名作にかなう本が出ることは少ない。それでも新しいものをつくり出さなければ仕事にならず、新しいものをほめて広告して売らなければならない。

名作は向こうから近づいてくる。名作は何度も上映されたり放送されるから、名作から逃れることはできない。必ずどこかで出会ってしまう。

名作を撮る監督は時代を超えた表現をしているから、百年経っても面白い。宣伝しなくても、才能ある人に気づかれ、再上映が企画される。

昔は年末、テレビの深夜放送で黒澤明の『用心棒』がよく放映された。

どのシーンをみても圧倒される大傑作で、年末だけ夜ふかしを許された小学生も三船敏郎にしびれ、いつの間にか仲代達矢との闘いを息を飲んで見守った。

大人になって見返すと音楽もすごいことがわかる。

『用心棒』で黒澤明のすごさを知り、もっとみたくて名画座の特集上映で黒澤作品をみた。一時期の黒澤明は神がかって最高傑作が連続した。黒澤作品が続々とビデオ化されたのは一九九〇年頃で、それまでは名画座でみるしかなかった。

スクリーンで黒澤作品をみることができてよかった。

『生きる』を池袋文芸坐のオールナイト上映でみて、主人公が生まれ変わった階段のシーンで、いてもたってもいられない思いがした。今すぐ映画館を出て、何かを始めなければならない思いがした。

映画に全く興味がない時期、恋人がDVDで映画をみて笑っていた。興味なかったが、何がそんなに面白いのかと、少しみてみるとそのまま目が離せなくなり笑いっぱなしで、あんなに面白い映画をみたことはなかった。『ジム・キャリーはミスター・ダマー』で、その後、ファレリー兄弟とジム・キャリーの作品をたくさんみたが、『ミスター・ダマー』が一番面白い。

原一男監督作品もそうだった。レンタルビデオ屋の棚で原一男監督作品は何か違う感じの目立ちかたをしていて、つい借りてみてみると傑作だった。

森達也監督作品も中田秀夫監督作品もそうだった。勝手に目に飛び込んでくる。

ビリー・ワイルダー監督作品も普通に暮らしていれば出会い、はまる。

天才映画監督は一作だけでは終わらないから、それぞれの名作たちがたくさんの人を引きつける。適当にみていても引き込まれてしまう。名作に出会い、その監督作品に夢中になっている時間は幸せで、映画をみるために生まれてきたような気になる。

あんなに面白い映画をまだみていない人が羨ましい。