●英国、ロシア、ルーズヴェルト

●司馬遼太郎『坂の上の雲』7巻

 

 

●200ページ

もともと英国というのは情報によって浮上している島帝国であるといえるであろう。伝統的外交方針として、ヨーロッパを操作するにあたって「勢力均衡」を原則とした。ヨーロッパにおける一国のみが強大になることをおそれ、その可能性がうまれた場合は、すばやく手をうち、その強国から被害を蒙るべき弱国を陰に陽に支援してきた。アジアについてもそうであった。ロシアがアジアの覇者になることを怖れ、極東の弱小国にすぎない日本を支援し、これと日英同盟をむすぶという、外交史上の放れわざをやってのけたのは、英国の伝統的思考法から出たものといってよい。

●205ページ

ロシアが、東アジアにおいてとどまるところのない侵略主義をとってきたために、英国は自国の東アジア市場を侵されることをおそれ、ロシアに対する抑止力として日本を同盟者にえらんだにすぎない。英国にとって日本の存亡などはどうでもよく、ただロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかった、大石をかかえてその前にとびこんでくれる機能的存在として日本を見、そのために日本を選んだにすぎない。

 ところが、日本は意外にも自滅することなく、相手の機関車を停止せしめようという甲斐々々しい働きをみせはじめたのである。

 同盟者である英国政府にとってよろこぶべきことではあったが、しかし英国の社交界の感情は、かならずしも単純ではなかった。理性的判断力に富んだ英国政府の要人たちはべつとして、おおかたの英国人の利害と感情を日本が百パーセント満足させようというなら、やってくる機関車も吹っとぶかわりに、石を抱いて飛びこんだ日本人もこなごなに、くだけなければならなかった。その両者の残骸のかなたに、英国人にとっては無限の食欲の対象になるシナ大陸があぶらみのごとく横たわっている、という風景画でなければならない。

 ところが、ロシアと日本は、英国人のたまの名画を描こうとはしなかった。

●216ページ

ルーズヴェルトはのちに「日本の弁護士」とまでいわれたが、しかしかれの考え方はアメリカの威勢のいい在郷軍人のように無邪気ではなく、日本人が情緒的に期待するような講釈本的な任侠道の主人公ではなかった。

 ルーズヴェルトは当然のことながら日露戦争についてはアメリカの利害を中心に考えていた。

「ロシアがアジアにおいて強大になることはアジアにおける勢力均衡がくずれることになる。まず日本によってこれを押さえねばならない」

 という考え方を、基調としてもっていた。

 この点、日英同盟をむすんだ英国の立場とそっくりである。

 日本は、道具にすぎない。

 もっともそれをもって怨声を発する日本人がいるとすれば――げんにいたし、その後もその質の日露戦争観があったが――それは世界政策をもたない質的弱者(被害意識者)の立場から見たヒステリー的発想にすぎないであろう。世界のどの国家もそれなりの世界政策をもっており、ときに他国の道具になったり、他国を道具にしたりしてその世界政策を成立せしめていた。

 ルーズヴェルトはその世界政策から日本が勝つことをのぞんでいたが、同人五その世界政策からいって大きく勝ちすぎることを望んでいなかった。とくに勝利があまりに大き過ぎる場合、日本はロシアがアジアに勢力伸張した分量だけ、倍賞というかたちによってかるてのロシアの座を占めることになり、要するに何のたまに日本の後押しをしてロシアを屈せしめたかという意味をうしなうことになる。

 日本には小勝を得しめるべきである。

 もし日本が大勝した場合でも、倍賞を大きく要求させてはならない。そのためにルーズヴェルトとしては日露の和平のテーブルをかれみずからが用意する必要があり、日本の過当要求をルーズヴェルト自身が削ってゆく必要があるために彼は調停者になろうとしていた。

 彼の本心は、当然ながらアメリカの利益に支点が置かれていた。彼は自国の海軍を拡充せねばならないという政策をもっていたが、このため日露戦争中からすでに、

「わがアメリカの太平洋艦隊を拡充しなければならない」

 と考え、戦後鋭意そのことにあたった。そのことは、彼が後に米国海軍をして日本を仮想敵とする遠洋決戦戦略をたてしめるに至ったことでもわかる。日露戦争におけるルーズヴェルトの胆略は、日本人が想像するような幡随院長兵衛式のものではなかった。

●230ページ

日本においては新聞は必ずしも叡智と両親を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという非さんな錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこの時のこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ち込んでゆくための原体質を、この戦勝報道の中で新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。

 戦後、ルーズヴェルトが、

「日本の新聞の右翼化」

 という言葉をつかぅってそれを警戒し、すでに奉会戦の以前の二月六日付の駐伊アメリカ隊士のマイヤーに対してそのことを書き送っている。

「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」

というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、常に一方に偏ることの好きな日本の新聞とその国民性が、その後も日本を常に危機に追い込んだ。

 ルーズヴェルトは日本に対して好意をもった世界史上最初の外国元首であったが、彼がいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余年しか経たないのにその原型の本質を見抜き切っていたことであった。彼は日本のためにアメリカ大統領であることに限界を越えてまで好意を見せ続けたが、しかし同時に彼の恐るべきことは、マイヤーに出した手紙でもわかるように、戦後米国は日本から脅威を受けるだろうと予言し、米国の存在のためには海軍を強大にしなければならないと説き、しかも、

「我が海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本その他の国との無用の紛争を未然に防いでいゆくだろう」

 という意味のことをいった。