●痛風の悪化は今日までで食い止める

痛風がひどくなると耳に痛風結節という尿酸の塊が出てくる。耳は体温が低いから血液中の尿酸が耳で結晶化するのだ。少し大きくなってくると爪で触ると薄い皮を破って尿酸がプニューッと出て来る。チョークみたいな粉の時もあるし、マーガリンみたいな時もある。みた目はニキビに似ていて、思ったより尿酸がたくさん出てくる。

酒をやめると尿酸結節ができなくなり、そのうち消えて普通の耳に戻る。私は4つぐらい痛風結節があったが、だいたい一年で普通の耳に戻った。一年前は痛風結節を人に見せていたが、今はないから見せようがない。それほど酒は体に負担をかける。

酒は健康な人が楽しむもので、病気の人が楽しめるものではない。どんどん体を悪くする。

尿酸値が高い人が、ビールをやめられず、尿酸値を下げる薬を飲みながら酒を飲み続けるが、酒をやめられないというのは思い込みで酒をやめれば今度は酒をみるのが嫌になる。

酒場は時に見栄が必要な空間で、ケチると店からも常連客たちからも嫌われる。普通に自分のペースで飲んでいるだけで、長居すればケチにみられる。女性従業員がいる飲み屋では1000円の酒を普通に女性従業員に奢らなければケチに見られる。昼の定食屋では考えられない空間だ。

酒をやめるとそういうところにもったいなくて行きたくなくなる。

自分が同じことをやっていたのに、酒場で遊んでいる人たちが愚かにみえる。大金を払って時間を潰している。女性従業員だって自分の恋人が酒場の女に酒を奢って時間をつぶしていたら不愉快になる。

煙草と同じだ。煙草をやめると、煙草を吸っている人が、ただの臭い人になる。臭いからその人のそばにいるのが嫌で離れる。服に臭いにおいがつくから一緒にいたくない。頭にひびく煙草の臭さで、その人の顔や人格まで嫌いになる。

病気になったら煙草も酒もうまいはずがない。体が嫌がっているのに、脳は「やめられない」と決めつけている。過去の楽しい思い出が酒や煙草を捨てきれないが、過去は過去でもう二度と戻ってこないし、周囲の人にとってはそんな過去もどうでもよい。酔っ払い払いは息も臭い。

寂しがり屋の友達が「少しぐらいなら飲んでも平気なんじゃないの?」といって酒をすすめてくる。飲み屋の人も商売だから注文すればもちろん酒を出す。

相手のことを深く考えていないから酒をすすめ、酒を出す。

私は友達が少ないから、酒の誘惑は少ない。自分が望まなければ飲まないでいられる。

しかし、酒場に行けば、店の売り上げに気をつかって飲まない訳にはいかないから、酒場に行かない。

友達と会って、酒場に入ったら酒を頼まないと店に居ずらいから、酒を飲む友達とは会わなくなった。居酒屋で酒を頼まないで2時間以上長居するより、街の中華屋で30分友達と一緒にメシを食べ、喫茶店で15分要件のみを話して別れるようになった。

長時間飲んだ方が楽しいのだろうが、また痛風の発作が起きることを考えれば仕方がない。ここで友達が酒をすすめてくるかどうかでその後の病状は大きく変わる。私の友達は酒を止めてくれる。家族がいてもきっと止めてくれるだろう。病人が酒を飲めば確実に病状は悪化する。

病気になってもまだ飲み会が楽しく、薬に感謝するというのはなんだか変だ。周囲の人は変だと気づいている。病人は酒場で浮いているし、「ああはなりたくない」と同情されている場合が多い。

 

そんな酒が楽しいというのはみじめで、「酒がやめられない」「酒場は楽しい」というのは思い込みであることがよくわかる。酒を飲まない人から見ると酔っ払いは楽しそうではなく、「ダラダラと無駄な時間を過ごしている」「あんなことを毎日してもったいない」と思っている。

「酒はやめられない」などという愚痴もお金を払っているから酒場で聞いてもらえる。

名軍人秋山好古はゴハンにたくあん程度の超粗食だったが、代わりに酒を好んだ。日露戦争中、戦闘中でも酒を飲み、その後糖尿病になり、悪化し足を切断、そのまま亡くなった。酒を飲まなければ糖尿病になってはいないだろう。

糖質のない焼酎やウイスキーや蒸留酒ならいい、といわれるが、酒は人体にとって肝腎な、肝臓腎臓膵臓をぶっ壊す威力がある。

 

酒を飲まない人は酔っ払いとの接触を避ける。酔っ払いとはボリューム調整が合わず、うるさいのだ。酔っ払いは気が大きくなっていて声が大きく、口数が多い。つまみの塩分と酒の水分によって顔がむくんで、赤い顔して、息が荒い。意味のない涙、全然面白くない一方的な爆笑、奇声、叫び、深夜の電話、記憶喪失、翌日の不愛想、立ち小便、ゴミ散乱、怒声、喧嘩、いちゃもん、過剰な接触、接近、キス、暴力、ぶっ壊れた食欲、ゲロ……酔っ払いは酔っ払い同志でラリッているから楽しいだけで、酔っていない人が冷静に見ると迷惑が非常に多い。静かに飲む人もたまには、酒の威力に飲まれハメをはずしてしまう。飲むなら飲み屋や大きな公園などで飲んで欲しいし、隣の家で宴会をやられては困る。特に深夜の騒音が迷惑だが、酔っ払いは飲めば飲むほど酒の力で盛り上がっていくので、深夜へ延長する。酒は飲めば飲むほど肝臓が消化力を増し、体を壊すまで強くなっていく。

かっこいい酔っ払いなどいるのだろうか。

 

山口瞳は酒のことばかり書いたが、実際は糖尿病で、人生の長期間酒を飲んでいない。山口瞳は酒を飲まずに過去の一流の酒の経験談を書いてに大人気で、最期までたくさんの酒飲みの読者を獲得し続けた。山口瞳は若き日の貧乏を語るが、貧乏なのに銀座の一流鮨屋で安く飲む。銀座の鮨屋の大将と絆をもち、オヤジの男気に涙する。普通の人間ではない。おそらく我々一般のアル中のように年収300万円以下で、結婚を実現できない貧乏とは違う。勤め先も河出書房だったり、サントリー宣伝部だったり、友達も伊丹十三だったり、読書人の憧れであり、一般の貧乏には実現できない。もし私が銀座の鮨屋で山口瞳と同じようなことをしようとしたら、店の人から「悪いが帰ってくれ」「もう来るな」と頼まれる。山口瞳だからできる。山口瞳ただ一人だけが実現できる。山口瞳はいつも店の人たちから愛される。店の人たちは山口瞳のことが好きでたまらない。そんな人は普通はこの世に存在しないし、実際に見ることはない。山口瞳は読者からも愛される。山口瞳を好きでたまらない読者は多い。週刊誌の人気連載エッセイ男性自身シリーズ全29巻で、定期的に自分の好きなものを順番にただ羅列して書いたり、自分の総入れ歯の清潔さを書いたりするが、普通の人なら、そういうどうでもいい話を誰にも聞いてもらえない。山口瞳の代表作男性自身シリーズは山口瞳を愛する人にとっては人生の書でいくらでも読めるが、山口瞳を愛しておらず、酒に興味がない人にとっては読むのが苦痛だ。山口瞳がよく書く山口瞳にとっての名店は、山口瞳を愛してはいない人にとっては名店ではないことがある。山口瞳が亡くなって時間が経ったことによって、名店でなくなった店もある。

日本の経済成長とも関係ある。山口瞳、開高健、池波正太郎の食事を真似すると金がかかる。1食1万円以上かかる。現在の平均年収400万円時代では真似できる人は少ない。山口瞳、開高健、池波正太郎ファンは、ホテルを愛し、美食を愛し、旅を愛し、ワインを愛したりするが、経済成長の終りとともに余裕のある人は減った。山口瞳、開高健、池波正太郎の日常的食生活を1日も真似できない人が多くなった。池波正太郎の『散歩の時何か食べたくなって』を読む人は今でも多いが、散歩の時、1万円以上する鮨屋やてんぷら屋にふらっと入る人が1990年代にはかなり多くいた。大グルメブームで、グルメ本をもち歩く人だらけの時代があった。今は贅沢は富裕階級のものであり、目立ち、嫉妬され、軽蔑される。

山口瞳ファンである私は『居酒屋兆治』のモデルである谷保の文蔵に一度行った。開店と同時に満席で、最初の一杯以外数30分以上何も頼めず、何も出てこない。マスターは客に見向きもしない。苦情をいう客がいて、常連客に「ここはそういう店じゃない」と注意されていた。1時間半経つとすいてきて、マスターが笑顔で謝り「ゆっくりしてください」と注文を聞いてくれた。2時間経つと常連客だけになり、みんなゆっくり飲んでいた。山口瞳はそういう店主との深い関係を好むから、一般客からの評価がどうしても複雑になる。

私は男性自身シリーズを集め、熱中した。開高健にも同じように感じるのだが、山口瞳の熱心な読者は時代が流れて高齢になり、続々と亡くなっていて、たくさんいたファンが、今は少なくなっている。開高健は1989年に亡くなり、山口瞳は1995年に亡くなっている。1990年代中頃までは普通に、開高健全集や男性自身シリーズを集めて宝物にしている人が普通に私の周囲にたくさんいたが、今はそういう人は一人も見当たらないし、愛読している人も聞かない。

『諸君! この人生、大変なんだ』は山口瞳にしか書けない超傑作だ。生きる情熱があり、この本がなければ生きていけなかった読者も多い。伊集院静が山口瞳のサントリー新入社員広告を受け継ぐことに成功したが、山口瞳にかなわなかった。山口瞳『小説吉野秀雄先生』も素晴らしく、私は人生に影響を受けた。『小説吉野秀雄先生』を読んだその日から、信号の黄色信号を渡らなくなった。信号の黄色信号を見て急いで渡るなんて恥ずかしいと、吉野先生は山口瞳にいう。

伊集院静、太宰治、小林秀雄、獅子文六、内田百閒、坂口安吾など、酒についての名文を書く酒飲みはいるが、みな普通の人たちではなく、その辺の酒場で出会えるような人たちではない。

酒で成功した人はほとんど実在しないが、取り戻せないレベルで人生を狂わし、戻れないレベルで健康を失った人はどこの町にも数人はいる。

 

 

実際は、酒をやめてみれば酒場以外にも行くところができるし、やることはある。酒をやめればその長い飲酒時間を他の何かにつかうようになる。テレビをみているだけだって、毎日時間は流れていく。毎日テレビをみていればそのうちオリンピックがやってくるし、ワールドカップがやってきて、スーパースターの爽やかなスーパープレーに感動する。大谷翔平がホームランを打つ。彼らは自分のためだけでなく、我々庶民のためにも活躍している。酒をやめてみればわかるが、薬を飲んで酒を続け、体調の苦痛に耐えるよりも、クーラーの効いた部屋でアイスコーヒーを飲みながらテレビをみて過ごす方が快適になってしまう。一度酒をやめてみて、どうしてもまた酒を飲みたければ飲めばいいが、断酒に成功してからまたアル中に戻る人は少ない。

人気者の酒飲みが病気で断酒すると周囲は寂しがるが、本人はもう酒を飲んでも昔のように気持ちよくなれないことを体で知ってしまっている。これは思い込みではない。酒を飲むのは無駄で、もったいなく、痛く、吐き気をもよおすムカムカしたまずさになってしまっている。飲みに行く気が全然しないし、飲む気がしない。酔っ払いの赤ら顔を見るのが嫌だし、酔っ払って声を大にして話すなんて、想像しただけで馬鹿らしく手気が滅入る。完全に飽きがきて、さめている。わざわざ酒の力を借りて気分を明るくしたい、などと思わない。冷静になってみると酔っ払いは酔っ払いだけで笑っていて、しらふでみると面白くないし、仲間に入りたくない。

楽しいなら薬を飲んでこれからも酒を飲み続ければいいが、病気になれば、体は酒を楽しめるわけはない。

 

煙草も酒も若い健康なうちはいいものかもしれないが、ただの思い込みで、やめられないと思い込み、体を今以上に痛めつけるのだけはやめたい。煙草と酒の毒は、若く健康なうちは消化排出し続けられるが、老化が始まると毒が血管や内臓に溜まり、体調不良、痛風、関節変形、こぶ、炎症の原因になる。血管のこぶが大きくなり破裂すれば脳溢血で、血管が詰まれば脳梗塞、心筋梗塞で、体が不自由な身体障害者になるか確率も高い。そこまで苦しんで喫煙と飲酒を続ける意味はない。

 

覚醒剤は気持ちよ過ぎて医学的にやめられないことがわかっている。酒と煙草をやめた人はものすごくたくさん、普通にどこにでもいる。酒と煙草はやめられる。覚醒剤に比べたら酒と煙草なんてその程度のものだ。

 

酒と煙草を続けて病状を悪化させてはならない。

 

酒と煙草を今日からやめて病気の進行を今日までで食い止める。

 

ぎりぎりまで病気を悪くして酒をやめるのはもったいない。これからのために、少し健康を残しておいて酒をやめる。どちらにしろ酒と煙草はやめることになるし、もう酒など楽しめる体ではない。

酒が完全に体から抜け切ったある日、叫びたいほどに体調がいい日がやってくる。自分の体の中に、まだ回復力があることを知り、感激する。もうもったいなくて酒なんて飲めない。

癌になれば、100%の人が癌宣告されたその日から煙草をピタリとやめる。

みんな煙草をやめ、日本の喫煙率は20%以下になった。昔は男性の喫煙率は70%以上だった。みんなに「臭い」と嫌な顔をされるようになったし、「あいつは臭いからやだ。あいつがいるなら飲み会に行かない」と普通に陰口をいわれるようになったし、値段はどんどん上がっていくから、みんな考えに考えてやめることにした。煙草をやめなければよかったと思う人に会ったことはない。煙草は以前と違って優雅な時間ではなくなった。プーンと強烈な臭さを周囲に漂わせ、みんなその臭さを察知すると避難していく。服ににおいをつけられたくないのだ。以前のように煙草のにおいが街中で当たり前のにおいでなくなったからこそ、臭さは10倍に感じるようになった。バッと怒りを込めて立ち上がって荷物をまとめて急いで避難する人も多い。煙草は不健康をまき散らす迷惑行為と認識されるようになってしまったので、煙草を吸う意味がなくなった。落ち着くために吸っていた煙草だったが、これほど嫌がられては落ち着いて吸えない。煙草をやめた人はもう臭い人に戻りたくない。