●才能ないのに小説新人賞応募をいつまでも続けている人

編集者だったから、持ち込み原稿を読んだことが何度もある。

私は持ち込み原稿を書籍化したことはないが、小さい出版社に行くと、ほとんどの持ち込み原稿を本にしてくれるような出版社もあった。もちろん最低限の分量と質が必要だが、有名なことがらをテーマに書いたものなら、小さい出版社を回れば書籍化は全然難しくない。

自費出版は書き手として面白くない。

書籍の裏にISBNコードがつかない書籍は本屋に流通しない。

ISBNコードがつけてくれるのなら、

・初版印税なし、増刷分から印税発生

・一定部数の著者買取

など、出版社が損をしない対策をされるのは当然といえる。そのような条件でも出版社に利益はなかなか出ない。自分の本を出してもらえるなんて夢のようだ。

印税は本体価格の10%が基本だったが、それも払うのがつらいほど出版社はなかなか儲からない。何十万部の大ヒットが出て何億円か一気に入ってきて、それまでの借金を払ってしまうというパターンは多い。

著者印税は本体価格1500円の単行本で100万部の大ヒット本を出せば1憶5000万円入るが、その翌年に、何十パーセントか数千マ年の税金を払う。

調べるとわかるが、100万部のベストセラーというのは年に数冊も出ない。

 

太宰治の『人間失格』は2000万部以上売れ続けている。佐野洋子の絵本『100万回生きたねこ』は200万部以上売れ続け、それだけで生活していける。

本ではないが1959年発売のマイルス・デイヴィスのCD『カインド・オブ・ブルー』は今でも世界で毎年何万枚も売れ続け、今聴いても新しくかっこよく、これを超えるジャズCDはまだ出ていない。ジャズは凄いメンバーが集合して演奏しても最高の演奏になることは少ないが、『カインド・オブ・ブルー』は全てが最高だ。『カインド・オブ・ブルー』を聞いていると、全てのトランペット演奏家が1959年に向かって演奏しているように思えてくる。

 

関係ないが、黒澤明監督の『酔いどれ天使』(1948)『生きる』(1952)『隠し砦の三悪人』(1958)『用心棒』(1961)『椿三十郎』(1962)『天国と地獄』(1963)『赤ひげ』(1965)はロバート・ゼメキス監督『バックトゥーザフューチャー』シリーズ1.2.3(1985.1989.1990)やトッド・フィリップス監督ホアキンフェニックス主演『ジョーカー』(2019)と同じレベルでかっこよくて面白い。

何十年も、時代状況と無関係に売れ続けている作品は本当の傑作で、一気に大衆に受け入れられ一気に消えていく作品も多い。

 

100万部はなかなか出ないので10万部を目指すのが現実的で、10万部でも出版社に1億、著者に1000万円入る。

出版社にいてみていると5万部ぐらい売れる本は勝手に方々で話題になり、さらに売れ続ける傾向がある。テレビで大きく特集されると大チャンスで爆発的に100万部に向かって売れることが多い。テレビで紹介されないと100万部は難しい。60万部ぐらいまでいくと大衆が勢いに気づき、実際にはちゃんと読まないのに買ってしまう。

村上春樹の新刊は世界で求められているから必ず売れる。

その他、確実な新刊需要書がいるファンを獲得して作家もいる。

大儲けでなくても確実に儲けを出せると実績でわかっている作家は出版社といい関係になれ、利益が出なくなるまで新刊を出し続けることができる。ヒットでなくても好きなことを書いて暮らしていけるのが一番の理想で、ファンからも信頼されている。出版社で利益を出し続けるというのは相当に難しく、実力者は実際にはごくわずかしか存在していない。

10万部以上の本は毎年必ず続々出る。20年ぐらい前までは新しい単行本を出せば必ず10万部は売れるという作家が何人かいたが、今は本当に少なくなった。

普通の単行本は初版2000部刷れば十分で、売れてから刷り増せばいい。

週刊誌が100万部売れていた1990年代までは週刊誌の連載が本になれば10万部以上売れることが多かったが、今は初版5000部も売り切らないことがある。

本は書店に並んでいても売れなければいつか出版社の倉庫に帰ってくる。返品手数料も出版社が払う。注文に応じて刷り過ぎてしまい、数か月後に返品の山が倉庫に戻ってきて大損をするということがよくある。実際に売れているのか売れていないのかわからないことも多い。

いくつかの大手書店では契約料を払えば全チェーン店ごとの実売データをいつでもみせくてくれるサービスがあるが、ある程度余裕のある出版社でないとそのようなサービスにお金をかけることはできない。

みんな実売データで印税を払いたいが、市中在庫を把握できないので、実売部数でなく印刷部数に印税を払う。数万部レベルのヒットが出なければ経営逆転はできず、赤字負債が増えていき、出版社はつぶれる。

それでも小さい出版社には優秀で貧乏で尊敬できる社長は多い。

社長一人で編集も営業も全てやっている出版社は多い。

こんなのが本になるの? という本は多く、アマゾンのレビューで大批判されている本は多い。何が売れるかはっきりわからないからいろんな本が出る。何か本を出さなければ出版社も出版社である意味がない。

実力があるのなら小説を書いて新人賞に応募するといい。

小説の新人賞はたくさんある。何十枚か書けば応募する。短いものしか書けない人はなかなか応募先がない。

大手出版社の文芸誌の新人賞は応募作が2000を越えたりするから才能のない人は通らない。通らなくても200作ぐらいにしぼられる一次予選に通過するだけでも嬉しい。

地方の市町村の小説新人賞なら応募作が200程度のものがあり、200でも一位を取るのは難しい。最終選考にも残らない。

私はこれまで20回ぐらい応募したが、二次予選に通過したことが一度もない。一次予選は5回ぐらい通った。

応募する度に予選通過者の発表に期待待ちする。20代から応募し始め、最初の10作ぐらいの5作ぐらいは一次選考通過者として名前が誌面に発表されたが、それから以降20年は一次予選も通過できないから才能はない。知り合いのプロのライターが応募したら一次選考や二次選考を通過していたから、私には小説の才能がない。

才能はないが、応募を続けている。

年齢とともに読書経験と知識は増えているはずなのに小説の実力が減少していくのが面白い。

 

「新人賞の一次選考なんて何が書いてあるかわかれば通るよ。それほどレベルが低い」

と語る業界人は多いが、そんなことは絶対にない。もちろん何が書いてあるかわからないような作品は一次選考を通らないが、受賞の望みが少しでもあって、少しでも作品に魅力があるものでなければ一次予選は通らない。才能が見逃されることは絶対にない。新人賞の一次選考を馬鹿にしている業界人が本気を出して応募してもおろらく受賞はできない。受賞者はたった一人だけだ。

小説の才能ある人にとって新人賞の一次選考ほど楽なものはないが、小説の才能のない人にとっては一生かけても二次選考は通らない。何十枚も続いた文章を書くには普通は平均して大卒レベルの学識がいる。

新人賞は受賞できないが、世に出る才能をもっていて、小説デビューできる人もいる。人付き合いがうまかったり、アピールがうまかったり、ある世界で有名だったりして、そこから小説発表にもっていく人もいる。

受賞なんてとっくにあきらめているが、応募するのが楽しい。なんともいえない緊張がある。駄目だとわかっているのに発表が待ち遠しい。

実力ある受賞者のことなんてまったく興味ないから全くみないし知らない。自分の作品の評価だけを知りたい。「また駄目だったか」とも思わない。

しかし、時期がくると小説を書きたくなる。数日から数週間集中して1作の小説を書くと他のことができなくなる。小説のことだけ考えている。

これまで書いた小説は1作も手元にない。新人賞も取れないほどの駄作で、実力がないと評価されたのだからデータを消す。

そしてまた新しい小説の構想を常に考えている。

どこが駄目だったか考えるが、一時通過も通らなくなったのだから、私の考える小説の正しい道は間違っている。

それでも小説が書きたい。もう二十年も書き続けているから体が動く限り書き続けていくと思う。

私は編集者だったから、何十冊も書籍を編集した経験がある。ずいぶんたくさん原稿を書いた。10万部レベルのノンフィクション書籍も何冊か執筆協力している。それらの本を題材にして私が小説として新人賞に応募したとしても一次予選に通過しない。

たくさんのプロのライターの文章を直したり書き直させたりアドバイスしてきたのに、新人賞の一次選考も通らない。書籍編集では私の方が選者より実績がある方もいる。

書籍の場合、誰が書いたかは大きい。どんな人が書いたか、読者はその人の体験を聞いてみたい。

小説の編集者は普通の編集者より優秀である場合が多い。多読が必要だし、速読も必要とされる。たくさん読まないと小説の良し悪しがわからない。小説以外の編集者は誰でもなんとかなる。ちゃんとした出版社では、文章チェックの専門家に依頼して編集するから、多読でなくても速読できなくてもなんとかなる。小説の編集者はたくさん小説を読んでいないと、打ち合わせができないし、提案もアドバイスもできないし、どこがいいのかもわからない。一つの作品がどれぐらいいい小説なのか、たくさん読んでいないとわからない。

平均的な普通の人間はそんなにたくさん本を読めない。書き手も編集者も普通はびっくりするほどは読んでいない。たくさんの資料には目を通す。

小説は流し読みや拾い読みが難しい。小説の編集者は多読が必要とされるから誰でもがなれるものではない。私の知り合いの文芸編集者は月に60冊以上本を読んでいる。仕事で小説を多読し、本を買って読み、図書館や資料室の本も読む。一緒に酒を飲んでいても、「酒を飲んでいる時間に本が読めない」と悔やみながら酒を飲んでいる。あまり本を読まない私に「最近何か面白い本、読みましたか?」と聞いてくる。小説の編集者にはそういう多読の能力をもっている人がいる。

池上彰も流し読みをしないことで有名だ。一冊一冊一行目からちゃんと読む。

池上彰は資本論を見事に解説したのがすごい。資本論は実は学生運動の闘志たちでさえほぼ全員読んでいなかったというくらい難しい。池上彰は「わかるように書かれていない」「なんでこんな関係ない話や、読者に到底理解できない話ばかり延々と書くのか」と解説した。その視点で読んでみると1ページにいくつもわからない単語がある。これでは普通の高卒レベルの学力の人間ではわかりようがないし、読み進めようがない。ただムカムカしながら文字を追っていくという最悪の読書だ。ドイツ人しか理解できない話も多いし、通貨の単位も土地名もイメージできない単語だらけで、何度も挫折した。1冊になっている池上解説を読んでからは資本論を読む気もしなくなった。

 

小説は空想が含まれる。知らない人の空想など誰も読みたくない。有名な人のみた夢の話だって聞きたくないのに、知らない人の夢の話を、しかもお金を払って聞く人はいない。

小説を書いて収入を得ていくには才能が必要とされる。

 

藤沢周平はある日突然ふと小説のコツがわかってしまった。それからは予選落ちするようなことがなくなった。新人賞受賞作を読んでみたが、どこがコツなのかわからなかった。そういうコツがわかるのが小説の才能だ。藤沢周平の新人賞受賞作がどういう内容のものだったかいっさい記憶に残らなかったが、会話文が多かった。小説に会話文は重要だ。会話文はスラスラ読み進めることができて気持ちがいい。会話文に意味深い人間感情や情報を込めることができればいい小説になる。私も会話文を書きたいが一往復の受け答えで会話が尽きてしまう。どんな小説を読んでも会話文がうまい。いつまでも感情を込めて上がったり、下がったり、怒ったり落ち着いたり、長く会話を進めている。

新人賞応募に審査料を取るところもある。当然だと思う。私も、自分の作品以外に興味は全くなく、応募した新人賞の受賞者や受賞作品をチェックしたことが一度もないし、知りたくもない。おそらく先のない無名作家の文章を1行も読む気がしないし、時間がもったいない。他に読みたい本がすでに古本屋や図書館に読み切れないほどある。新人賞とはその程度のものであり、新人賞を受賞してその後に作家として収入を得る人は数えるほどしかいない。しかし、それでも、大作家たちも新人賞を取ってから世に出ている。

夢がある。希望がある。だから新人賞応募はやめない。受賞なんて無理に決まっているし、一時予選通過も無理に決まっている。

人間は何かをしなければならないし、いつも何かに向かっていたい。新人小応募はその何かとしてとてつもなく魅力がある。こんなにいつまでも熱くなれるイベントは他にない。

募集要綱を確認しながら応募原稿を封筒に入れ、郵便局にもっていった後の達成感は何度やっても飽きない。

ヘタでも小説を1作書き終えるのと、書こう書こうと思いながらもいつまでも書かないのでは、大きく違う。作品を郵便局に出す前と後で気持ちが大きく違う。生きる喜びに満ちている。二十代の頃から変わらず若々しく、恥ずかしく、くすぐったい気持ちになる。毎回帰りに一人で喫茶店や居酒屋に寄って余韻に浸る。作家でもないのに心地よい疲れと解放がある。これでまたしばらく生きていける。ずっと憧れてきた手の届かない世界にほんの少しでもいいから近づくことをしていたい。