●西園寺公望
●司馬遼太郎『花神』下巻
昭和十五年まで生きた公家あがりの政治家西園寺公望は、元来政治家であることを望まなかったようであり、さらには政治に情熱をもったこともなかったが、しかし彼の門閥と世間の彼への期待が、九十一歳で没するまで政治的生涯を送らしめた。
西園寺公望の生涯をみて、政治家というより文明批評家であったといえるであろう。その傾向は少年の頃から強かった。
彼の家は五摂家に次ぐ家格であったために、数え年五歳で侍従、九歳で右少将、十三歳で従三位右近衛権中将になり、戊辰戦争の時は十九歳ながら山陽道、北陸道の官軍の主将として転戦し、乱がおさまると、越後府知事に任命されたが、これを断り、「書生になる」といって東京に出てきた。
「あの小僧はよほど出来る」というのが同じ公家出身の岩倉具視の口癖であった。公家に人物がいないために岩倉は西園寺を自分の後継者にするつもりであった。
が、西園寺は期待される鋳型にはまることから逃げ続けた。東京に出てきた当座、
「いままで不当に差別されてきた階層の人々がいる。自分はその階層の娘と結婚したい。探してくれないか」
と、人にしきりに頼んでいた。彼が戊辰戦争の砲煙の中をくぐって実感として感じた明治維新のイメージは権力交代ではなく革命で、その理想は自由と平等の社会の現出であると信じた。
「自分は日本でもっとも尊貴とされる公家である。その公家がいわれなく差別された娘と結婚すれば、その一時で千万言を用いずして維新の理想が世間にわかる」
西園寺は勤王・佐幕の相克という時代相から高く抜きんでた文明感覚をもっていたことがわかる。
大村益次郎は、士族を排しして平民社会にするということを軍制の面から考えた男であり、その考えのために士族階級から憎悪されていた。大村が西園寺をかわいがったのは気分の一致ということでもあったであろう。
西園寺は大村に師事した。
大村ははじめ、西園寺を軍人にしようとしていた。
西園寺がフランス留学を相談すると大村は賛成し、仏人を紹介してフランス語を学ばせた。
「そんなに平民がお好きなら、平民の名前をおつけなさい」
と大村にいわれ、望一郎と名乗ったりした。
西園寺は詩と酒と芸妓を好み、京ではさかんに遊んだ。さらには自邸に学者をまねき、書生をあつめ、私塾をひらき、私塾の名を立命館とした。