●ペリー来航の事前情報

●司馬遼太郎『胡蝶の夢』2巻

歴代のオランダ商館長は、ふつう年一回、江戸へ参府し、将軍に謁見した。さらには長崎奉行を通じ風説書とよばれる海外情報を幕府に差し出すのが慣例だった。この和蘭風説書は幕府の特別な高官しか閲覧できないことになっていたが、幕府がこれを参考に世界感覚を養ったという形跡は少しもない。

たとえば嘉永6年のペリー来航は当然だった風に幕閣でさえ受け取られたが、ペリー来航の前年の風説書に、ペリーの名前からその目的、艦舶の名称まで書かれていた。幕閣はそれを無視したか、習慣的に鈍感だったにすぎないのである。

 

●井伊直弼の一面

●司馬遼太郎『胡蝶の夢』2巻

幕府が長崎海軍伝習所と、医学伝習所を撤廃するという。

「人間の情熱というものをご存じでしょう」

オランダ商館長クルチウスが長崎奉行岡部駿河守にいった。

「オランダと日本の友誼関係は、実に古い。ペリー来航以来、日本が苦しんでいるのに対し、オランダは古い友情から、なにがしかのお役に立ちたいと思い、海軍のこと、医学のころなどに、できるだけ力を尽くしてきた。なるほど、日本が列国と国交を結んだこんにち、各国との距離は等距離でありましょうが、しかしオランダとしては在来通り、特別な立場を得つづけたいという外交上の功利性は多少持っています。しかし、それは些々たるものです。カッテンディーケが海軍教育に熱中し、ポンぺが医学教育に熱中するのは、ただひたすら他人の役に立ちたいという無償の情熱です。一国の外交が、その場その場の利害によって旋回するならばその国は結局ほろびましょう。人間の個々が持っている親切という無償の行為に対し、一国の外交の場においても、豊かな感受性をもって感じ取るべきだと私は思うのです」

「わかっていますよ」

痩せ型で色白の岡部が答えた。岡部は薄手の磁器のように皮膚が透き通った感じだったといわれている。日本国、徳川幕府の封建諸藩のあいだの外交例をいくつか挙げた。

「諸藩との関係は礼節と、相互に恩を報いる道義で成り立っており、それらが数百年間様式化され、煩瑣なほどで、この物産のとぼしい日本はそういう感情と習慣を輸出したいほどです」

岡部は江戸の幕閣あてに長文の意見書を書き、急飛脚で送った。

幕閣は、大老井伊直弼の独裁下にあり、普通ならこの種の意見書は老中の誰かが披見するのにとどまるところ、いきなり井伊自身が披(ひら)いて読んだ。

長崎における医学教育を廃絶するべきではないという意見に、井伊は、

「長崎の海軍教育廃絶はすでに命じている。医学教育については十分に言明していないから、継続すべき」

とした。

幕府の医官松本良順が長崎を去れば長崎での医学教育は半ばを失う。良順を江戸に返すべきではなという意見には井伊は首をひねった。良順に関する命令も良順の名前も知らなかった。

「松本良順という奥御医師が長崎にいるのか?」

左右に確かめ、今一度意見書を読んだ。

「公明はそむくべからず。良順なる者、すみやかに公命通り寄府すべきである。しかしながら岡部の意見はよくわかった。良順の帰府の期限を延ばして欲しい、という大老宛ての願書をあらためて岡部に書かせよ。その願書が江戸に届けば、わしは文箱に入れたまま決裁を忘れることにしよう。決裁を忘れている期間は何年でも、良順の学業が成るまで留学費その他は従来通りとする。大老の職の多忙なる、一医生の留学を忘れたとて何のさしつかえもあるまい」

そういって笑った。井伊はこの年の3月3日に桜田門外で水戸浪士らに襲撃され、惨殺された。井伊は在職中、特に幕府の洋学派に嫌われ、死後は水戸学派に嫌われたが、松本良順は終生井伊を讃え、大政治家だった、とした。