●アヘン戦争

●司馬遼太郎『花神』下巻

「清朝は悲惨である。日本はまぬがれねばならない」

ということを津々浦々の有志は思い、実のところ明治維新のエネルギーはアヘン戦争から発した危機意識に源泉をもつといっていい。清朝の悲惨とは、ヨーロッパの帝国主義勢力に中国が蚕食(さんしょく)されつつあるということであり、その蚕食のなかでも最大の衝撃を日本人にあたえたのは、アヘン戦争であった。明治維新の思想的な合言葉は尊王攘夷であるにしても、それはいわば表札のようなもので、実質上の源泉はアヘン戦争の情報であった。

アヘン戦争は、ペリー来航の11年前に終結したが、アヘン戦争が終結した天保13年は、西郷隆盛が15歳、吉田松陰12歳、木戸孝允9歳、坂本龍馬7歳、近藤勇8歳である。彼らの少年期には、すでに薩摩の島津斉彬や、水戸烈公徳川斉昭らを代表とする大小の世論形成の参加者は、ことごとくアヘン戦争の実態を知り抜いており、アヘン戦争の衝撃は日本中の有志の常識になっていて、

「やがて惨禍が日本におよぶ」

という危機感はおよそ文字を知る者はことごとく共有していた。アヘン戦争から11年後に米国のペリーが東洋艦隊をひきいて浦賀にきたとき、日本史上最大の衝撃波が日本中にひろがるのだが、そのありようは、

「自動的に動く船が来た」

という衝撃よりも、

「アヘン戦争が日本にも来た」

という、かねてこの一事についての危機感が充満していた時だけに、その揮発性物質に点火し、一大爆発を起こしてそれ以後、歴史そのものが地すべりするごとく大暴走を開始したといっていい。

アヘン戦争についての情報源は、長崎であった。長崎へ到来する文献によって、日本人は知った。その情報源は針の穴のように小さくはあっても、その普及力はすさまじく、たちまち全国に広がったあたり、情報が歴史を変えうるという意味では、世界史的な偉観といっていい。

なぜなら、東アジア三国のうち、李氏朝鮮はアヘン戦争を、一部の読書人は知っていたかもしれないが、どういう反応もみられない。

被害国である中国そのものも、一部の知識人が危機感をもっただけで、全体としてはまったく反応がにぶい。

アヘン戦争を通じてみられることは、当時の中国の驚くべき無力体質である。

「清はすでに死骸のようなものだ」

という意味のことをいったのは、幕末最大の知的憂国家のひとりで、中国通でもあった薩摩藩主島津斉彬であったが、事実そうであった。

 

当時の英国の労働階級は中国茶を好んだ。かれらは大いに消費しこのため英国のアジア貿易を担当する東インド会社は大いに輸入したが、この消費と輸入があまりに大きくなったため英国財政にまでひびくようになった。

この当時の英国人は商業的機略に富み、この問題を解決するために中国人にアヘンを売りつけることを考えた。

そこでインドでアヘンを栽培し、それを東インド会社の専売にして、中国へ大量に輸出した。多くは密輸であった。このため中国人にアヘン中毒患者が激増し、患者が級数的に増えてゆくごとに、その分だけ銀が中国へ流れ、ついに中国の銀が激減した上に、廃人になってゆく中国人が目立ち始めた。

その分だけ英国が繁栄した。

ときに湖広総督だった林則徐がこれを憂え、皇帝に上書してアヘンの害を説き、これを封殺しなければ重大な結果をまねくとして痛論したところ、ときの皇帝の宣宗はこれに同感し、林則徐を引き上げて欽差大臣とし、アヘン密輸港である広東に派遣した。

林則徐は着任後すぐ英国商人がもっていたアヘン2万箱あまりを取り上げ、これを焼き捨て、以後、アヘン貿易船が入るごとに没収し、ついにはアヘン密輸業者を死刑にすると宣言した。

これに対し、英国はついに武力をもちいた。

「武力以外にアジア人を屈服させることができない」

という理論を、アングロサクソンが確立したのはこの時である。その理論をみごとに実証した。

英国が使った武力は、当時の強国としては最大限のものであった。軍艦十六隻という大艦隊を組み、輸送船二十七隻に陸兵を満載した。

この大軍は各地を占領し、揚子江をおさえ、ついに南京に進撃しようとしたため朝廷は屈服し、驚くべき条約を結ばせられた。

「清国政府は償金二千百万ドルを英国に支払う」

という条項を筆頭に、香港を英国に割譲し、広東、アモイ、寧波(ニンボー)、上海、福州を開港する、というもので、さらに、条約にこそ(英国はさすがに恥じて)明文化しなかったが、最大の目的であるアヘン貿易を清国に認めさせることに全面的に成功した。