●西郷隆盛にとっての戦争

 

●司馬遼太郎『花神』下巻

●花神とは中国での花咲爺さん。『花神』の主人公長州藩大村益次郎は、幕末維新後に活躍した全国に花と種を撒く役目をした新政府の討旧幕作戦司令官。大村は優秀な医者で、医学を学ぶためにオランダ語を学び、オランダ語の知識を買われ、オランダ語の兵書を読むことを頼まれ、軍事に詳しくなり、軍事の知識を買われ、作戦司令官にまでなってしまった。大村は毎晩豆腐をつまみに一人で酒を飲む。豆腐を愚劣する者はついには国家を滅ぼす。豆腐には身を養うに十分な栄養がある。それ以上の奢侈を望む者を相手に新国家の構想は語りにくい。

●西郷隆盛の考え

国内を焦土にすることによって一個の国民ができあがってゆくのである。日本中が戦乱の炎で焼かれ、士農工商の階級がその炎の中で消滅し、工も商も剣を取って戦うことによって江戸期の形式主義が滅び、欧米人に匹敵する国民的自我が成立する。

 

●司馬遼太郎『世に棲む日日』2巻

内国戦争派は西郷隆盛である。彼は維新が成立した時、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで)があまりに簡単に片付き過ぎたことに大不満を発し、「日本はまだ戦争がし足りません」といったことがある。当時西郷の戦争好きといわれたが、のちに西郷は自分のことの短い言葉を説明して、

「旧幕側がもっと強く戦い、天朝の側と無数の激突をかさねて津々浦々まで焦土になった時、初めて国民の元気が盛り上がり、そのうえで政府をつくる。この政府が外国に対してもっとも強い政府です。今の政府は、なま煮えの戦争でできた政府でありますから、外国に弱いのです」

という意味のことをいった。

 

●司馬遼太郎『世に棲む日日』2巻

好選派でいえば土佐の中岡慎太郎もその代表的存在であり、かれも内国戦争派であった。彼は幕末のギリギリの時、内乱をおそれる同志を叱咤し、「戦争の一字あるのみ」といい、おそらく幕末の活動家としてはもっともすぐれた論文を書いている。

「西洋諸国といえども、露王のピョートル、米国のワシントン師(敬称をつけて中岡はワシントンに私淑していた)のごとき、国を興す者の事業をみるに、百戦の中から英傑がおこり、百戦を経て、諸人の議論も定まっている。このように百戦を経た議論でなければ、国家をつくりあげる議論として役に立たない(西郷と同論)。戦争の是非などといっている場合ではない。早く戦争を始めなければ、議論ばかりになり、いつまでも事が運ばない」

「攘夷というのは、日本だけの特殊な意見ではない。そのやむを得ざるに至っては、世界の各国、みなこれを行う。アメリカはもともと英国の属国であった。ときに英国王は利を貪ること日々にはなはだしく、米民はますます苦しんだ。よってワシントンが民の疾苦を訴え、ここにおいてワシントンが米地13州の民を率い、英人を拒絶し、鎖国攘夷をおこなった。これより英米が戦うこと7年、英ついに勝てざることを知って和を乞い、アメリカはこれによって英属をまぬがれて独立し、13地同盟合衆国と号し、一強国となる。実にこれは今を去ること80年前のことである」

中岡はこの論文を慶応2(1866)年に書いている。

この論の論旨を思いついたのは、中岡より高杉晋作のほうが数年早い。松陰でさえ倒幕ということは露骨には書かなかったのに、晋作はその革命戦略論において最初に倒幕を織り込み、ついで後年、晋作独特の割拠論を確立した。

長州藩を幕府体制から独立させて独立公国とし、独自の攘夷をおこなうというもので、この実施によって長州は藩として潰滅寸前まで至る。

中岡のいう「戦の一字あるのみ」を好まなかった体質の革命家が別にいた。

長州の桂小五郎(木戸孝允)であり、土佐の坂本竜馬だ。竜馬の戦略論では内戦はまったく必要でなかった。

 

 

 

●福沢諭吉と攘夷

●司馬遼太郎『花神』中巻

「私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ」

開明派・福沢諭吉がそうまでののしった愚劣な攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させた。福沢のような開明主義では明治維新は成立しなかった。

攘夷エネルギーで成立した明治維新が、世界史上類のない文明開化方針をとったのは皮肉なようにみえるが、歴史はこの点、化学変化のふしぎさに似ている。福沢のような開明主義では、本来国家を一変させるエネルギーをもっていない。

佐幕開明主義というグループが存在したが、これではとても歴史は動かない。というのは、この時代、むしろ幕府方のほうにこそ開明家が多かった。松本良順のような洋医もおれば、榎本武揚のような洋式陸海軍の指導者もいる。

さらには、小栗上野介のような開明政治家もいて、小栗は徳川家を保存する方法として徳川将軍家をナポレオン3世のような地位にし、大名を廃止して、郡県制度をしくという青写真をもっていた。

「薩長による明治維新がなくても、幕府中心で開明国家になったはず」

という議論があるが、これでゆけば、清帝国のままで孫文の中華民国もできたし、毛沢東の中国もできたという議論に等しい。清朝末期にも洋式海軍があったし、開明的な政治家や思想家もいた。しかしながらそれらの開明主義というのは国家と社会を一新させるエネルギーにはならない。

幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、旧秩序を焼く尽くしてしまうための大エネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。

福沢諭吉は大村益次郎や長州人の攘夷熱を嗤ったが、もし当時の日本に彼らの攘夷熱が存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶応義塾も、あのような形ではあらわれでてこなかったことになる。

反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。

攘夷が、福沢のいうようなばかばかしいものではなく、思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後激動期の歴史の上でのさまざまな魔法を生んでゆく。

西郷隆盛は、攘夷エネルギー以外に日本を一変させる魔法はないと信じていた。西郷は幕末きっての開明君主で同時に攘夷家であった島津斉彬の家来というより、もっとも良質な門人であったが、幕藩日本をいったん攘夷の火で焼き尽くし、それによって理想国家をつくろうとした。

維新後、西郷は征韓論をとなえたために、同時代の志士上がりの政治家たちから、

「西郷の戦争好き」

と嘲笑された。西郷は戦争好きではありません、ただ戊辰の時、日本は戦争がし足りなかったと思った。鳥羽伏見ノ戦いからはじまって会津若松城攻めと箱館五稜郭攻めで終わった戊辰戦争が、あまりに手っ取りばやく済み過ぎた。これは革命家・西郷のうらみになった。

「幕軍はもっと強く抵抗し、両者激突して日本中が火の海になり、焦土になってしまわねば、旧日本は亡びない。内乱の焼けあとの灰の中から新しい日本が生まれる」

幕藩日本は、横は約300の藩にわかれ、縦は階級が複雑で、これをこわして統一国家を成立させ、さらには百姓町人をも国家に参加する気概をもたせるのは戦火の大洗礼以外にない。その革命エネルギーの根源が攘夷であるということを西郷は知っていた。

福沢諭吉の攘夷否定の開明主義だけでは新国家はうまれないのである。