〔2024年3月31日 英語礼拝⑤〕

 

それで、この狂気の沙汰の果てに、イエスは死ぬんだ。(テックチームに)画面をどんどんとスクロールして、続きを出して。

 

27:45さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。 27:46そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 27:47すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。 27:48するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 27:49ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

 

そして、キリストの死という悲劇が訪れる。つまり、私たちが最も恐れている死と破壊の必然性だ。そして、私たちの人生の目的、使命、夢はすべて失敗し、崩れ去る。そして誰もが私たちを笑う。私たちは失敗し、破壊され、誰もが私たちを嘲笑うからだ。そして、犯罪者さえも、彼らは犯罪者を自由にするよう求めているが、私たちには死ねと言っている。わかりますか?そういう恐ろしい恐怖が全部そこにあるんだ。そして、キリストはそれに耐えなければならなかった。私たちはそれに耐える必要はない。私たちはこの映画を見ているだけなんだ。私たちは、私たちは、私たちは、私たちは、身をもって感じている。目瞑すれば、彼は実際に歩かなければならなかった。私たちは、この物語が展開するのを見て、何を得ることができるのだろうか?この物語が展開されるのを見て、私たちは何を得ることができるのか?ただ、それは何なのか?その古い言葉は何だ?賢者は他人の過ちから学ぶことができる。

 

 

だから、この、キリストの物語全体、受難物語は、私たちを前に進むようと呼びかけているのだ。走り続けるのか?自分を道化にし続けるのか?自分に嘘をつき続けるのか?臆病者であり続けるのか。他人を責め続けるのか。自分の情けなさや心の中に復讐心を溜め続けるのか、それとも死ぬのか。どうなると思う?キリストは死んだ。自分の概念や感情を死なせて、新しいものであるキリストの御霊に満たされることを望むのか?彼の霊に満たされるのだ。そうすれば、彼のように勇気をもって生きることができる。すごいことだ!わかりますか?普段のあなたとは違う。皆さん、何の話か分かりますか?臆病になったり、恐れを抱いたり、ノイローゼになったり、将来の心配をしたり、死や破壊や、あらゆることが自分に降りかかってくる可能性を感じたり、圧倒されたり、無力感を感じたりして、苦しくなったり、復讐心を抱いたり、腹を立てたりして、自分のせい、神のせい、みんなのせいにしたくなるけれど、そんな生き方をしてはいけないんだ。

 

ところで、それはさらに悪くなっていく。死と破壊はなくならないからだ。死と破滅はまだあなたのもとにやってくる。たとえ、あなたが恨んで復讐に燃えていたとしても、死と破滅は、まだあなたにやってくるのです。その上、敵まで作っている。自分に向かってくる復讐のレベルが倍増しているんだ。それがどう作用するかわかるだろう。あなたは今、状況を悪化させている。死を何だと思っているんだ?地獄だ!分かりますか?皆さんは、死が最悪だと思っていたが、死後の世界もあるんだ。それは死よりもっと悪い。それは神からの完全な分離であり、自分自身の壁の中で、自分自身の破滅の中で生きることだ。それは死であり、そして、周りにいるすべての人々も、また破滅の壁にぶつかり、炎の穴の中で永遠に果てしなくお互いを破壊し合うことになる。それは死よりも悪いことではないか?驚くべきことだ!死よりも悪いのだ。私が言っていることがわかるだろう。それは死よりもっと悪いんだ。

 

では、イースターの日曜日は何をするのか?それは、死、破壊、地獄、悪魔、蛇、裏切り、裁き、そして、あなたを投げ捨てた部族やその他すべてのものの中にあっても、キリストは変わらずにおられた、ということを教えているのです。そのような中でも、キリストは真実であり続け、大きな拷問のような重荷を負われた。そして下り坂を歩まなかった。歩いたのだ。どこに向かって?自分の死と破滅に向かって上り坂を行ったのです。何を持って?勇気だ!私たちと違って、私たちはいつも下り坂を求める。私たちはいつも楽な道を求める。十字架を背負いながら、彼は上り坂を選んだ。その十字架は彼を死に至らしめた。そして彼は、勇気をもって恐怖を感じたのだろうか?また何か感じたのだろうか?恐怖を取り除くことはできない。ただ勇敢になるだけだ。だから若い人たちが訓練に来るんだ。三代王権や天一国文化に触れている。彼らはどうなるんですか?勇敢になるのです。彼らはこれらすべてのことをするんだ。私たちは、そのようなハードな訓練をします。なぜか?なぜなら、それによって勇敢になり、臆病にならず、臆病で麻痺することもなくなるからだ。自分の限界を押し広げることで、より勇敢になれる。そして、どうなるのか?

 

エスカレーターが怖くなって、最後には、エスカレーターに乗ることになった人たちはどうなると思う?その後の人生で何が起こると思う?これっておかしくないか?どう思いますか?エスカレーターが怖いのは事実だ。しかし、どんな練習であれ、クライマティゼーションの過程を見てみよう。彼らは今、エスカレーターに乗ることができる。彼らはより勇敢になる。ご存知でしたか?これはノーマライゼーションと呼ばれているんだ。だから、一度怖いものに立ち向かって、それに打ち勝つスキルを身につければ、彼らはそれを克服するんだ。恐怖は決してなくならない。でもどうなるのか?彼らはどうなったのか?より勇敢になったのです。どうなったのか?より現実的になったのです。それで、どうなるのか?他のあらゆる面で勇敢になる。どうなるかわかるだろう。エレベーターが怖くなくなる。飛行機も怖くない。いつかパラシュートで飛行機から飛び降りることができるかもしれない。どうして?エスカレーターを怖がらない方法を学んだからだ。そうでしょう?

 

だから、訓練はとても重要なんだ。だから恐怖に立ち向かい、勇気を持つことが重要なんだ。だから、人にとって一番怖いことは何か?他人と戦って負けること。ただ負けるだけでなく、人前で恐ろしく、恥ずかしく負けること。柔術のマットの上では、白帯の誰もがそういう話をする。そして美しい死と復活を経験するのだ。謙虚になる。負けるだろう。みんなの前で大恥をかく。そして、それについて嘘をつくことはできない。タフなふりをすることもできない。それは、あからさまに自分がどうかということを見せている。それが現実だ。でも、あなたはその坩堝をくぐり抜ける。いわば死と復活を経験し、逃げ出したり、臆病になったりしない。普通なら、逃げて隠れて、自分がタフであるかのように装って、言い訳をして、あの日の私は、私は、もっとうまくやれたはずだ、と言うだろう。

 

でも、でも、そんなことをしたら、あなたは二度と現れないだろう。いやいや、みんな君が嘘をついていることを知っている。ウソつきだ。いや、君は、君は、その坩堝をくぐり抜けるんだ。そしてこう言うんだ、私は思っていたほど強くもなく、勇気もなく、勇敢でもない。私は恐怖でいっぱいだ。臆病でいっぱいだ。何をそんなに気にしているんだ?他の人たちは、私のイメージはタフであると思っているが、タフであるという私イメージは、現実ではない。でも、私のイメージ、タフであるという偽りのイメージだ。無知な人たちに、自分の態度だけでタフだと思わせることはできる。でも、タフな人たちに、自分の態度だけでタフだと思わせることはできない。それがどういうことかわかるだろう。できません。タフな人々に自分がタフであることを納得させる唯一の方法は、自分がタフであることを示すことだ。ある種のふりをすることではありません。

 

 

 

 

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