今回はヨブ記を取り上げてみたいと思う。
2023年12月10日の英語礼拝、キリスト教を再び勇敢に(1)で二代王様は以下のように語られている。
今日はヨブ記第15章に入りましょう。ヨブ記第15章。そこに飛びましょう。この驚くべき、驚くべきエピソードの全て。ヨブは神を呪わなかった忠実な僕です。彼は、自分が生まれた日を呪った。しかし、彼は決して神を呪わなかった。それは試練だった。これは、神がサタンにヨブの信仰と不屈の精神を試させるテストについてのエピソードだ。多くの祝福があり、ヨブには10人の子供がいた。彼にはすべての祝福と恵みがあった。それは彼が神に忠実であったからなのか、それとも、彼が忠実であったのはそれらの繁栄のおかげなのか、それとも、彼が神を愛していたからなのか、彼の心のおかげなのか。
それで神は言われた。分かった。ヨブに試練を与えても良い。そしてもちろん、サタンは彼を試し、あらゆる種類の災難で彼を打ちのめした。そしてもちろん、次の段階として、サタンはヨブに病気も与えようとした。ヨブ自身も体中に腫れ物ができ、ひどい病気にかかった。今、彼はその回復期にあった。その場面が15、15章なのです。そして、彼の3人の友人たちが彼を「慰める」ためにやってきた。そして彼らは7日間、そこに座って見ていた。彼らはただ7日間、彼を見守った。彼らは何も言わない。ただ7日間、彼を見守った。「ヨブ、元気か?」と。彼らは7日間、彼が苦しんでいるのをただ見ていた。そして、ヨブが沈黙を破って話し始めた。ヨブよ、この宇宙で起こることには理由がある。君は隠れた罪人だ。(略)。あなたは分かち合っていない秘密の罪を持っている。だから苦しんでいるんだと。
ヨブ記は、ヨブが自分が生まれた日を呪った場面が描かれた3章からがメインではあるが、ヨブほどの信仰がない自分にとっては、1章、2章にもいろいろと教えられることが多い。
ヨブはサタンの試練を受け、自分の子供たちが死んでしまった。そして、多くの財産を失うことになる。韓国語礼拝でも語られているが、そのような試練を受けたならば、ほとんどの人は神を怨んでしまうだろう。しかし、ヨブは、
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
と語り、この時点では、神を呪うことも、自分が生まれた日を呪うこともなかった。そして、さらなるサタンの試練を受けて、自分自身の健康までもが奪われた時であってさえも、
「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。
自分自身に置き換えてみると、当然のように祝福を通して相対者を与えていただき、子女を授かり、それなりのレベルでの健康と経済状態の中で歩んでいるが、どれ一つとして、自分の条件があったわけでもなく、神様から、一方的に与えられている恵みであることを忘れずにいたいと痛感する。
自分たちはメシアを証しされて、原理を知り、み旨のために献身したこともあって、そのことを自負心に思うことは、それはそれでよい面もあるが、その一方で、自分の立場を当然のことと思ったり、ある種の執着を持つことによっての弊害も出てくるように思う。
ヨブも、おそらくは、原理を知らない立場であるにも関わらず、我々以上に信仰的な人生を送ってきたと思われるが、試練を受けた時の、一切の執着を持たない、潔い姿勢は素晴らしいと感じる。
いつ、ヨブのような試練を受けるかもわからないが、今、授かっている環境を当然のものだと思わずに、仮にそういう試練を受けることがあったとしても、ヨブのことを思い出して歩んでいきたいと思う。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。아버지、 감사합니다.」
