〔2024年2月4日 英語礼拝②〕

 

ああ、申し訳ない。今、エレミヤ書の45章を読んでいましたね。ごめんなさい. ジャンプして戻ります。戻ろう。44章に戻ろう。45章ではなかったね。エレミヤ書の44章だ。ああ、ごめんなさい。画面では44章だった。そこに戻りましょう。

 

44:1エジプトの地に住んでいるユダヤ人すなわちミグドル、タパネス、メンピス、パテロスの地に住む者の事についてエレミヤに臨んだ言葉、 44:2「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたはわたしがエルサレムとユダの町々に下した災を見た。見よ、これらは今日、すでに荒れ地となって住む人もない。

 

そうです。バビロン捕囚となったからだ。バビロンに捕囚され、町全体が荒れ果てた。そして問題がある。これは問題だ。神は、神は物理的な神殿だけには執着されない。なぜか?それは、キリストだ。彼は生きた神殿だからだ。すべてのユダヤ人にとって、神殿よりも重要なのは、神の生きた神殿、イエス・キリストなのです。アーメン。彼とつながり、彼に従い、彼に仕え、彼のために立ち上がり、イスラエルの王、世界の王、王の王として彼を守る。これはどんな神殿よりも大きなものだった。そこで神は民に教えるのです。見なさい! 私と関わるためには、荒野の神殿が必要だ。私を崇拝しなさい。しかし、それは主な目的ではない。なぜなら、私の息子が来るからだ。彼は私の生きた神殿を持っている。彼は生きている。彼はデジタル世界の地球で、ビデオゲームに登場する私の生きたキャラクターなのだ。そう、比喩的に言えば、彼(キリスト)は地球上における私(神)なんだ。だから、彼を愛さなければならない。彼と関係を持たなければならない。建物はあなたを訓練するために重要だった。でも今は、私の息子と関係を持つ必要がある。息子とは誰のことか?

 

オーケー、オーケー、そしてもちろん、私たちはそれを伝えます。その比喩を思い出してください。興味深いです。私は、ギャビン・オーランドのような、現代の弁証主義者をたくさん見てきた。

 

 

彼らは、私のビデオや、私たちのビデオゲームの比喩と非常によく似た比喩をするんだ。ビデオゲームがあって、そのビデオゲームの制作者がいる。パスカルとしましょう。ビデオゲームを作った。彼は文字どおり、このビデオゲームのクリエイターなのです。ビデオゲームで遊んでいる人たちに会いに行くと、たぶんこのデイブがビデオゲームの中にいる。グレッグもビデオゲームの中にいる。他にもフランとかも、ビデオゲームに出てる。そういう人たちに会うんだ。彼らはNPC(ノンプレーヤーキャラクター)です。キャラクターを演じている。PCSかな、キャラクターごっこをしている。つまり、彼らは現実の人間なんだ。でも、演じているのです。アーメン。

 

また、NPCに出会うこともあります。私たちはノンプレイヤーキャラクターと呼んでいます。それは本当ですか?NPCとはノンプレイヤーキャラクターのことです。実在の人物ではありません。でも、彼らに会っているのです。そうです、でも面白いですね。パスカルは、神とかそういう存在じゃない。でも、パスカルが今ジャンプしているとき、彼がゲームでプレーしているとき、あなたは文字どおり創造主に会っているんだ。彼はフランとは違う。ダビデとも違う。グレイとも違う。皆さん、何の話か分かりますか?彼は実際に創造したのです。空の星も、山も、小川も、モンスターも、全部彼が描いたんだ。じゃあ、ビデオゲームに出てるからって、今、彼に会っているんだね。外にいないわけじゃない。何の話か分かりますか?彼はほとんど外にいる。完全に外にいる 本当ですか?彼は、完全にビデオゲームの外にいる。

 

でも、ビデオゲームの中でプレイしているアバターを通して、ビデオゲームの中にもいるのです。だからすべての創造の神は、創造の外にいるんだ。でも、キリストであるアバターと一緒にその中にいることができるのです。でも、でも、その彼に会うということは、彼はダビデとは違う。グレッグとも違う。フランとも違う。彼は文字どおり、全宇宙の創造主なのだ。星、山、惑星、あらゆるものの創造主なのだ。彼が演じているのは、彼はイエス・キリストだった。真のお父様だ。分かりますか?それは文字どおり、地球上の神の存在だ。だから、同じ人間だということがわかるだろう?だから、もし私が、デジタル世界で、パスカルのキャラクターに会ったとしたら、私はビデオゲームの中に居て、私はビデオデジタルの世界にいる。私は完全に100%デジタルの人物、「人」に会っている。でも、ビデオゲームの外にもパスカルがいる。その100%、デジタルイメージではない実在のパスカルがいる。彼は、彼は実際には、全くデジタルではないのです。何の話か分かりますか?

 

だから、彼は完全に別物なんだ。でも実は同じなんだ。理解できるかな?彼は創造主でもあるんだ。だから、彼はすべてのNPCとは違う。(略)これを若い人たちに使っているんだ。彼らは三位一体の概念を少し理解している。でも今、現代の弁証主義者、例えばとても有名な弁証主義者が、この例を使っているのを見たことがある。だから、彼らが何をするのかはわからない。もし彼らが、私たちの礼拝を見ているのなら、あるいは見ていないのなら、あるいは聖霊と一緒に来たのかもしれない。でも、でも、でも、このデジタル・ビデオゲームの例えは、実際、とても強いんだ。というのも、このようなデジタルの風景全体という現実があるのは、現代だけだからだ。このマトリックス的な風景は、すべて自分で作り出すことができるんだ。

 

とにかく、要は神は彼らにこう言ったんだ。私は山も作った。星でできた惑星も作った。そして、荒野にいる間に、この神殿と幕屋を作り、私と関わりを持つようにと言った。従順の中心点、礼拝の中心点を持つためにね。しかし、私がイエス・キリストとしてゲームに参加して、真のお父様としてゲームに参加するとき、あなたたちは私を中心とする。私が神殿だ。それがどのように機能するかわかるだろう。私は今、神殿だ。分かりますか?だから、あなたはそこに来なければならない。分かりますか?なぜかって?ただの石造りの建物ではなく、私と関わることができるからだ。だから、これは昔と同じことなんだ。もし人々が神を受け入れないなら、現代も同じだ。神は今、その建物を、跡形もなく取り壊すことに何の問題もない。神は忍耐強い。しかし、現在のエルサレムのイスラエルを,、跡形もなくに打ち壊すことはできるのです。今は何もない。今、そこにあるのは特別な土地だけではありません。本当の特別な土地は誰のことですか?キリストだ。彼こそが本当の聖地だったのです。キリストこそが約束の地なのだ。キリストこそが聖地なのだ。彼は現実の神の神殿なのだ。皆さん、何の話か分かりますか?

 

 

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