〔2023年7月23日 英語礼拝②〕

 

レインボーフラッグの、赤、白、青、黄色の愛について話しているのではない。これは父の愛の話です。父なる神の愛だ。父のきちんとした愛です。だから、文脈がとても重要なんだ。だから、アガペーの意味や、愛の意味を作り変えようとする、狂ったニール異教のカルト集団の上に座ったままの現代のレンズで、私たちは聖書を読むことはできないのです。アガペーの意味は、聖書の中で非常に具体的な文脈を持っている。父の子に対する愛。それは防衛的な愛だ。守る愛だ。子供たちを生かすために自分を犠牲にする愛だ。それは戦士の愛のようなものです。それは本当に、戦士の愛なんだ。そして、それが、私たちがパウロのこの聖句を読んでいる重要な背景なのです。

 

さて、私たちは、そのような文脈でこれを読んでいる。ネオ・ペイガンの文脈で読んでいてはいけない。カルトの文脈は違うのです。アガペーの話は愛とは関係ない。レインボーフラッグなんかは、愛とは何の関係もないのです。皆さん、何の話か分かりますか?アガペーは、キリストに従順で、自分の仲間を愛する、正しい男、正しい男らしい自然な本能なのです。彼は家族を愛している。妻を、子供たちを愛している。そして彼らのために死ぬ覚悟がある。それが正しいアガペーの愛です。だからこそ神は、エペソ人への手紙第5章で、そのような正しい愛、聖なる愛を実践するようにと呼びかけているのです。家庭の祭司、王として、つまり、あなたの妻の祭司として、あなたの妻と子供たちのために、その愚直な愛を行使するように、と。アーメン。とてもとても大切なことです。そうです。ではその内容を見て、それから戻ってください。第13章1節です。では、最初の部分だけを見てみましょう。

 

13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もしがなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

 

(略)私たちは、現代社会でその全体的なことに入ることができます。愛とは、あなたがただなんとなく感じている感情です。その愛はそこにある感情ですが、アガペーの愛の適切な文脈です。もう一度読んでみましょう。

 

13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし父としての愛、犠牲的な愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

 

それがどれほど違うか、皆さんおわかりでしょう。今、私は一人の男として、(略)、神に語りかけているのです。アーメン。

 

(略)このいやらしいセックス・カルトに吸収されることはないのです。彼らが境界線を曖昧にして、感情だと言わせようとしているところです。「魅力」は「愛」に等しいなんて、冗談でしょう?勘弁してくれ。とにかく、やりすぎなんだ。やりすぎだ。「愛」は「愛」に等しい。違います。ゲイの祈りとか、そういうのがあるじゃない。彼らは「愛は愛だ。愛は愛だ。」と言うが、そう、これは真実じゃない。愛は愛ではない。そこには悪魔的な愛があるのです。だから、愛は愛ではない。神は愛だ。神は愛です。キリストはその聖なる血を流しながら犠牲になられた。それが愛だ。それが解放する血であり、それが愛なのです。私が言っていることがわかりますか?聖書が愛について語るとき、私たちは慈愛(無償の愛)について書いているのです。女性的なものではないんだ。女性的なものではないんだ。それは、超格好いいタイプの愛です。アーメン。

 

(略)そういう意味なのです。超格好いいタイプの愛です。パパのような強い男性の愛なのです。だってそうでしょう?男にも感情があるんだよ。ただ、それを隠さないだけなんだ。見せないだけ。アーメン。私たちにも愛があります。本当はたくさんの愛があるんだ。でも、私たちはそれを表に出さないだけなんです。世間は私たちがそれを示すことを望んでいる。私たちはただその感情に触れて、女性のようになることを望んでいるわけではないのです。自分の感情をコントロールできない男性は、非常に危険です。大量殺人犯の心理学的プロファイルはこうだ。彼らは訓練を受けたことがない。感情をコントロールする術を知らない。いいですか、皆さん。彼らは難しいことをする必要がないのです。泣いても何の役にも立たない。だから、グロスマン中佐は殺人や戦闘に関する本の中で、大量殺人犯の研究結果を紹介しています。アメリカの銃乱射事件の犯人たちは、アメフトも格闘技もやったことがない。一人は格闘技を3か月間やったが、あまりにタフすぎて辞めてしまったのです。テコンドーか何かをやっていたんだろうけど、テコンドーでもきつすぎるというのです。冗談でしょう?

 

 

 

 

 

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