第1章 キリストと共同の相続人

1.1 宗教ではなく、神との関係

(3)の続き

 

しかし、キリストと共にある者にとっては、創造主と被造物という認識があり、自分の罪を自覚し、救い主を必要としているという認識があるのです。私たちは一人ではできません。努力しても完全な人間にはなれないし、努力しても天国には行けないのです。私たちは、自分の行いで、罪のない、汚れのない状態になって、神の前に立つことはできません。キリストの愛が必要であり、キリストとの関係が必要であり、キリストの贖罪が必要であり、キリストの癒しが必要であり、キリストとの触れ合いが必要であり、キリストの臨在が必要なのです アーメン! それが私たちを神のもとへと導くのです。 (2020.12.06)

 

(マタイによる福音書 9:10-13)

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 

(ヨハネによる福音書6:44)

わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。

 

迷っている人への思いやりが重要です。人々の自由意志を奪うという意味ではありません、人々には自由意志があります。人には自由意志がありますから。でも、迷っている人を思いやる気持ちは大切です。それは、「よし、今の僕を受け入れてくれ!」と言うためではありません。「おっと!駄目だ!駄目だ!神は今のあなたを救うことができますが、あなたは自分の罪を悔い改めなければなりません。罪から離れなければなりません。私は罪によって死に、キリストにあって生きるようになります。」と言いなければならず、また、キリストを自分の人生の中心に据えなければなりません。そして、あなたは清められるのです。神の中にサタニズムを持ち込むことはできませんし、神の近くに罪を持ち込むこともできません。(2021.03.07)

 

(使徒行伝3:19)

だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

 

(ローマ人への手紙6.23)

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

 

 

例えば、あなたが罪を犯して、見知らぬ人が罰金を払ってくれて、あなたを逃がしてくれたとします。その人に対して、ものすごい感謝の気持ちが湧いてきますよね?私はこの人を知らないし、この人がそんなことをする必要はない。彼は私を保釈する必要はなかった、私が誰かも知らなかったんだ。なぜあんなことをしたんだろう?そして、あなたはそれを知りたいと思うでしょう。もしこれがあなたの人生で起こったとしたら、よく考えてみてください。それはとても価値のあることで、「なんてことだ!私はこの人にひどいことをしたくない。感謝の気持ちを持ちたい。何とかして彼に借りを返したい。何らかの形で役に立ちたい、どんな形でも、と思うでしょう。その不相応な愛に報いたい、返したいという自然な心を感じるでしょう。そして、それがクリスチャンの高潔さの原点なのです。だからこそ、キリストにある人々は良いことをするのです。良いことをすることで救われると考えるからではありません。良いことをすることで救われると考えるのではなく、何のために良いことをするのでしょうか?神に感謝し、神に喜びをもたらすためです。それはとても簡単なことです。私たちが良いことをしようとするのは、それが神を喜ばせるからです。私たちの罰金を支払い、私たちを死刑から逃れさせてくれたその人に対して、どんな場合であれ、私たちは感謝しています。だから、「Praise God! (神を讃えよう!)Thank You so much!‘ありがとうございます!」。 だからこそ、キリスト教の世界では、良いことが起きたときも、悪いことが起きたときも、「Thank you Jesus! Thank You God!(イエス様、神様、感謝です!」なのです。(2021.02.28)

 

(エペソ人への手紙5:20)

そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、

 

(詩篇136:2)

もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

 

 

キリストにあっては、ユダヤ人も異邦人も、自由人も奴隷も、男性も女性もありません。私たちは皆、キリスト・イエスにあって一つなのです。私たちは一つであり、一つになるのです。しかし、だからと言って、自分の価値観で生きたり、悪魔的な価値観をキリストに持ち込むことはできません。そうではありません。罪に結びついたもの、サタンに結びついたものを殺さなければならないということです。だからこそ、キリストは「私のために死ぬ者は命を得、生きようとする者は死ぬ」と言っているのです。アーメン!彼がそのような比喩を使っているのは、私たちがそのサタンの文化との関係を断ち切り、彼にしがみついて、今度は恋に落ちなければならないからです。罪と恋に落ちるではありません。違います。罪とではありません。キリストとの新しい関係に恋をしなければなりません。この関係は、日々のことだけではなく、永遠に豊かになるもので、一時的なこの世の目的だけでなく、永遠の価値と永遠の命で私たちを満たしてくれます。それは信じられないような贈り物です、皆さん! (2021.03.07)

 

(エペソ人への手紙3:16-19)

どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

 

(ペテロの第一の手紙2:24-25)

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである

 

(ローマ人への手紙8:2)

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

 

 

≪1.2 「神を愛しなさい。あなたの隣人を愛しなさい) に続く≫

 

 

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