第1章 キリストと共同の相続人

1.1 宗教ではなく、神との関係

(2)の続き

 

自由を求める心情は、聖霊によって私たちの中にあります。そして、もし私たちが神を知っていて、私たちが単なる二足歩行に進化した両生類ではなく、高度に進化した猿の一種でもないことを理解するなら、私たちは、全能の創造主である神との関係を持っていることが理解できるはずです。神は愛の神であり、人間に自由意志と自由を最大の贈り物として与えてくださいました。私たちはそのような関係を持っていることが分かるはずです。そして、誰もその心に宿る炎を消すことはできません。Gulag(ソ連の強制収容所)、死のキャンプ、あらゆる強制収容所で好きなだけやっても、聖霊が与えたその心を消すことはできません。 (2021.01.17)

(ガラテヤ人への手紙5:1)
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

(コリント人への第二の手紙3:17)
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。


(使徒行伝15:8)
そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、



キリストの体である私たちは、世界における神の手と足です。サタンもサタンのからだを持っていて、自分の王国に物理的な影響を与えるために、手と足、つまり人間をこの世で使います。神は、私たちが霊の実を受け継ぐだけでなく、特に主が戻ってきたときに、神が最初から遺したものを受け継ぐ権威を持つことができるようになることを願っておられます。詩篇2:8にあるように、「わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。」とあります。それは、私たちが財産を崇拝する者になるためではなく、神がご自身の子供たちに与えてくださった恵みの賜物を、神のように管理する者になるためです。アーメン!(2021.04.04)

(創世記1:27-28)
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(ペテロの第一の手紙4:10)
あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。



神様はモーセと共におられました。イスラエルの人々と共におられました。彼らが完璧でなくても、彼らが奴隷であっても、神は彼らと共におられました。彼らと共におられるために、煙の柱と火の柱に象徴される超自然的な存在を彼らに示されながら、神は彼らに「私はあなた方と一緒にいるだけでなく、戦いの最前線にあなた方と一緒に立っているのだ。あなたは一人ではありません。キリストは「私はあなたを見捨てない」と言われました。彼は私たちを見捨てず、戦場で私たちと共に立っているのです。(2021.05.02)

(創世記26:24)
その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

(ヨハネによる福音書14:9)
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

(歴代誌下32:8)
彼と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる」。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に安心した。



イエス様は死を克服しましたが、死を真っ直ぐに見つめていました。ゲッセマネの園で、イエス様は泣かれました。それは痛みを伴い、ストレスもありました。聖書には、血の汗をかいていたと書かれています。つまり、ゲッセマネの園でのキリストも、ものすごいストレスと痛みを感じていたのです。死に直面しなければならなかったのです。しかし、コリント人への第一の手紙にあるように、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。」(コリント人への第一の手紙15:55) と。 なぜなら、彼はそれに直面したからです。彼はそれに直面し、それを超越しました。彼が「私は平安だ!私は神の御心を行っている!」と言ったので、もはや死は彼を支配する力を持っていませんでした。キリストはこう言いました。「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」。(マタイによる福音書10:28) (2021.01.10)

(マタイによる福音書26:39)
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

(ヨハネによる福音書17: 1-26)
これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。
わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。



「私は誰も殺していないし、誰もレイプしていない」というように、他の人と比べて自分が良いと思っています。私たちは自分を他の人と比較しますが、神は私たちにこう言っています。「いや、他の人と自分を比較しろと言っているのではなく、私と自分を比較しなければならないと言っているのだ 」と。そして、神聖さにおいても、力強い愛においても、正義においても完璧な聖なる神と自分を比較するとき、なんということでしょう!子供の頃についた一つの嘘も、その後についた多くの嘘も、自分ではついていないと言っていても、ついていたことがわかっていても、嘘をつかない神の前では、それらすべてが目に余るほどの力を持っているのです。(2021.06.20)

(コリント人への第二の手紙10:12)。
わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。


(エペソ人への手紙4:25)
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。

 

 

 

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