ベッドから起きあがろうとすると、

頭が重すぎて起き上がれない。


人間の頭が身体の中でも特に重いことは知っていたが、

まさか自分の頭がこんなに重く感じるとは想像したことが無かった。


その上、ベッドの柵に紐で腕が縛り付けられていた。

せん妄状態の時に自分で喉の管を引っ張ってしまったらしく、

身体拘束がなされていたのだった。


意識ははっきりととしてきた。


何より先に思ったのは、

職場に連絡しなくては!

ということだった。


しかし、気管支切開しているため声も出ない。

メールをしようと枕元近くに置いてあったスマホを取り出した。

スマホがいつもよりも重く感じられ、

一瞬、

自分ののスマホだろうか?

と疑った。


そして、寝たきりでいつ退院できるかもわからないのに、


あと1週間くらいで復帰できます、

申し訳ないのですがそれまで休ませて下さい云々


という長文の謝罪メールを職場に送った。

慌てて夫に、職場に直接電話して詫びてくれともメールした。


死にかけてもなお、

職場に自分の不在で迷惑がかかることを恐怖に感じていた。

非正規で最低賃金に近い時給で、

ボーナスはおろか寸志すらもらったことはないのに。

休んだら当然無給だ。


倒れる前にも、休みたくても我慢して

病院にも行かずに職場へ行って、

結局悪化して、


それが正解だったのだろうか。



…なんて愚かなんだろう。


今ならそう思えるが、その時は必死だった。




オムツを換えられている時、

持ち上げた自分の太ももが目に入り驚愕した。

 

骨と皮だけのようになってしまっていたのだ。

 

(え?なんで太ももが急にこんな細さになっているの?)

 

頭が混乱した。

私は入院して3日ほどしか経っていないと勘違いしていたのだ。

 

実際には、入院してから10日以上経っていた。

 

そして後にわかったのだが、

その時には、BMIが13になるまで痩せてしまっていた。

 

入院する前に、食べ物が喉を通らない期間があり、

更に入院して10日以上点滴のみの絶食で寝たきりだったため、

あり得ないほどに痩せてしまっていたのだった。

 

驚いて、自分の腕もまじまじと見てみた。

 

案の定、二の腕も細くなり、急激に痩せたためか皺っぽくなっていた。

 

それに加えて、手首や肘にまで点滴や注射痕がいくつもあり、青あざになっている。

 

手は、筆談でできたマジックやボールペンの跡が付き汚れていた。

 

頭は重くて起き上がることができないが、

髪の毛はベッタリとして、ぐしゃぐしゃに固まっているのがわかった。

耳の中からは血の塊がでてきた。

 

いつの間に、こんな状態になってしまったのか。

 

手術後、意識が少しづつはっきりとしていく中で

自分の状況がようやくわかってきた。

 

 

…ただ歯が痛かっただけなのに、

なぜこんなことになってしまったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

朝になっていた。

 

足には血栓予防のためのフットポンプがつけられている。

看護師さん二人がかりで、

足にキツいタイツを履かされたことを思い出した。

 

人工呼吸器が外され、自分で呼吸できていることに気付いた。

 

しかし、なんだか妙なことにも気付いた。

口からは呼吸ができず、喉の穴から呼吸しているのだ。

 

自分の首から下が、一体どうなっているのかわからない。

 

感覚としては、首から下に大きな穴が空いていて、

そこにガーゼが被さっているだけの状態のように感じていた。

 

若い看護師さんが二人やってきて、

オムツがどうのこうのという会話をしていた。

 

そうか、私はオムツをしているのか。

 

今まで考える余裕がなかったけれど、

ベッドに寝たきりで、自分で身体を起こすこともできないのだから当たり前だ。

なぜ今まで羞恥心を感じていなかったのだろう。

 

オムツを替えられながら、

強烈な恥ずかしさを感じていた。

 

オムツを替えてもらっても、声を出せないのでお礼すら言えない。

ただただ申し訳なく、

人としての尊厳を失うとはこういうことか、と思っていた。

 

そう言えば、寝たきりの私はずっと

看護師さん達に介護されていたのだ。

感謝しかない。

 

上野千鶴子のことをまた思い出していた。

 

妄想の中の上野先生が、笑いながら励ましてくれた。

「こんなに早く介護される体験ができたなんて、

  将来の予行練習になっていいじゃない」

 

 

 

 

苦しさで目が覚める。

過呼吸の症状だった。

 

言いようのない不安と、

意識が存在することの恐怖に支配されていた。

 

薄眼を開けて見えたのは、薄暗い天井と

心電図の規則的に光る明かり。

 

夜らしかった。

 

目も開けられず身体も動かせない中で、

誰かの手によって

服を変えられたり、

淡々と氷枕を変えられたり、

熱いタオルで顔を拭かれたりしたことを思い出していた。

 

自分で腕を動かすことができることに気づいた。

腕を意味もなく持ち上げてみる。

天井に吊るされた金具が、勝手に動くような幻覚が見えた。

 


しばらくして、過呼吸が収まると

今度は異様な喉の渇きを覚えた。


そういえば、入院してから水の一滴も飲んでいない。

今の今まで、食欲はおろか喉が渇くことすらなかったのに

無性に、普段飲むことのないコーラを思い浮かべていた。

コーラを飲みたいと思うことなんて絶対なかったのに不思議だった。




 

 

 

 

 

手術台に、身体が持ち上げられたのがわかった。


アンパンのマーチが鳴り響いている。


やなせたかしの歌詞は好きだったのに、

繰り返し流れるその陽気なメロディーに、恐怖しか感じなかった。


やがてメロディーはぐにゃぐにゃになり

意識が遠のいていった。


そして、


暗闇の中、

音と痛みだけの世界になっていた。

…これは、生と死の狭間なのだろうか。

それとも、もう既に死んでいるのだろうか。

ドリルの様な音が頭を突き破り、
痛みが波の様に押し寄せる。

この激しい痛みは永遠に続くのか。

怖い。

痛覚が、死んだら消えるものだと誰が証明しただろう。

怖い、永遠の痛みが怖い。

どんよりした鈍色の川が流れている。


自分を苦しめた人の顔が浮かんできて、
私のことを責めたてていた。


それくらい、痛くないでしょ!?

子供も産んだことないくせに!

子供を産む方が痛いよ!


どうして、

自分を苦しめた人の存在を、自分は最後まで許せなかったのだろう。

こんな気持ちのまま死んでいくと、

痛みとともに闇の中でぐるぐると永遠に過ごすことになるのだろうか?

誰も憎むことなく、生きれば良かった。


最後にこんな気持ちで、死んでいかなければならないのなら、
どんなに酷いことを言われても、許せば良かったのだ。

誰も恨みたくない…。



…遠くの方で男性医師の声が聞こえる。


廊下を何度も行ったり来たりする足音がする。


暗闇の中、遠くの方の扉が開く様に、

光が少し見えてきた。


苦しい。

酸素はもういらない。

人工呼吸器を外して欲しい。


ダメだ、と怒られたような気がした。


自分の思いとは裏腹に、


人生に引き戻されていくのだと思った。