「心の極致」・・・・3 神の子の本質についての群盲象評のたとえ | きほりんの健康大好きブログ

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昨日は、「正しさ」の変幻自在さ、多様性について、学びました。

 

人それぞれに魂の段階も違いますし、環境も体験も違います。

 

ですから、「正しさ」というものも、白、黒という平面的な例えではわかりません。

 

「蜂の巣のたとえ」は、難しいです。神秘的です。

 

 

 

 

 

『新・心の探究』(大川隆法著)  P231

 

3 神の子の本質についての群盲象評のたとえ

 

それでは、これをもっとわかりやすく言うとどうなるか。

これについて話をしていかねばならないと思います。

正しさというのは、いまいったように、神の子の本質の探究であるわけですが、

それで神の子の本質とは、いったい何なのか。

これについて、さらに質問を畳み掛けて来る方もいらっしゃるでありましょう。

 

したがって、神の子の本質とは何か、

ということについて私は話をしてゆかねばならないと思います。

神の子の本質とは、なかなか一言では言いづらいものがあります。

それは、群盲象評という譬えがありますけれども、

要するに、目の不自由な方が像を評する、こういう言葉がありますね。

 

そうすると、目の不自由な方ですから、象の鼻をいじると

「象というのは、実に細長いものだ」「ホースのようなものだ」と、こういう。

また、象の腹を撫でた目の不自由な方が、

「象というのは、実にこれはドラム缶のような存在だ。」こういうふうにいいます。

あるいは、象の足を撫でた人は、

「象というのは、実に細長いものだ。」こういうふうにいいます。(中略)

 

このように、目が見えない人からみれば、象というのは的確に表現できない。

目が見えない人だけではないんですね。

私たち三次元に住んでいる人間もみんなそうです。なんでも目に入って来るけれども、

目に入ってくる映像とは、ひじょうに二次元的なんですね。平面的に映るんです。

遠近の感じはあるけれども、それは、立体としては目に入ってこないはずです。(中略)

 

ですから、結局、「正しさの探究」の奥にあるもの、心の極致の奥にあるものというのは、

神とは何か、というところに向かって行くわけです。

そして、神とは何か、ということを知ることによって、

神の子である人間の性質を知るということになってゆきます。

結局、心の極致とは、神の本質ということです。神の子の本質の上にあるもの、

すなわち神の本質ということになります。

そしてこれは、神とは何か、という古くて新しい問いかけであり、

宗教や哲学の永遠のテーマとなっていくわけです。

 

 

 

今日の学びは、なかなか高度ですね。

 

まだまだ腑に落ちてきません。

 

何回も読み続けます。まだまだです。(#^.^#)

 

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