カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人生の段階」三三三頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『しかし、そのような事実的な救いが我々の身に起こりうるためには、まず、我々は自分自身のものから、つまり、いろんな形をした利己心から解放されねばならない。これに、多くの段階を通り、数々の十字架を負いながら徐々に成し遂げられる困難な仕事である。なぜなら、知性や情操を養うのに必要なあらゆるものを受け容れうるためには、我々は自分を捨ててすっかり空(から)にならねばならないからである。だが、あらゆるものを受け容れるといっても、ちょうど旧約聖書のいう、マナ(出エジプト記一六の一五。砂漠のさすらい人に天から賜った食物)のように、一日分ずつ授けられるのであって、一度に全部ではない。新生を経験しない狡猾な「古き人」(ローマ人への手紙六の八)ならば、毎日授けられる神の恵みからできるだけ免かれるために、むしろ一度に受け取りたいと思うだろう。これこそ「前よりももっとひどく騙される」(マタイによる福音書二七の六四)ことになるであろう。正しい賜物を十分に受け取るように我々を教育することが、神によるこれまでの生活指導の意義である🌟。そうなって初めて行為は祝福に満ちたものとなるのであって、それ以前ではない。そうなると、同時にまた、いわゆる「社会問題」ということが、その人の揺るがせにできない課題となる。これは単に我々の時代のみでなく、あらゆる時代の人間の問題でもあって、これまで常に存在したし、また人間と共に永久に存在して無くならない問題である。しかしこの問題の解決は、決して教会や国家によってなされうるものではなく、数限りない個人の道徳的力や個人的愛によってのみ成し遂げられるのである。それぞれの人が、定められた活動範囲で、特に自分に課せられた務めを果たすべきであって、託されたタラントを地中に埋めたり交換したりしてはならない(マタイによる福音書二五の二四・二五)。これは、その人の生涯の外的任務であって、決してそれを回避したり、怠ってはならない。その任務を果たした時、また果たした範囲において、初めてそれを他人にも教え、生涯にわたって、この愛の教えが地上で維持されるように協力すべきである。人はひとたび金銭や名誉や享楽にもはや大きな意味を認めなくなると、極めて多くの余暇が生ずるので、それを満たすために本気に仕事を求めねばならなくなる。さもないと、退屈のあまり逆戻りする危険に陥るからである🌟🌟。

 🌟 詩篇八一の一。このような生活指導の段階が旧約聖書においては、創世記一二の一、一五の一、一七の一に記されている。

 🌟🌟 なおこのことについては、前の論文「キリスト教序説」およびマタイによる福音書一二の四三ー四五を参照せられよ。最もすぐれた活動は、他の人達を助けて真の生活に入らしめることであるが、それは自ら真の生活に達した後のことである。それ以前にそうした仕事をしたがるのは危険である。

 

 要するにこの時期は、主として仕事と戦いの時期であるが🌟、しかし順調にゆけば、仕事は辛労なしに、ますます楽しく、自ら進んでやれるようになり🌟🌟、また一方、自分の内にも他人の内にも勢いを奮っている。あらゆる反神的なものとの戦いもますます安全な、余裕ある勝軍(かちいくさ)となっていくのであって、結局、ここ時期においても「安息日の休みが、神の民のためにまだ残されいる🌟🌟🌟」のである。神は彼らが持ち望んでいる終わりの日を与えるであろう。しかしそれは、これと異なる人生目標🌟🌟🌟🌟を抱いていた多くの気高い人達の最後のような悲しむべき終局ではない。

 

 🌟 人生の真の転回期は、我々が安息や享楽(こうしたものには、決して本当の平安も悦びもない)よりもむしろ仕事を、いや、艱難や戦いをさえ、好むようになる時である。だから、おそらく来世も、ただ安息ばかりでなく、すっかり落ち着いた、楽しい仕事から成り立っているのであろう。だから我々は、すでにこの世にあっても、そうした仕事に到達しなくてはならない。青年になった時、この点で果たして進歩しているか、それとも退歩しているかということは、人生の真の重大な問題である。あらゆる人の生涯は、その終末において、この基準に従って自分自らを裁くのである。

 また、時にはなぜ進歩がはかばかしくないのか、我ながら解らぬこともしばしばある。そういう場合には、おそらくイザヤ書五八の六〜一一が解決してくれるであろう。およそこの時期の進歩には、常に、前もって我儘に対する試煉とその放棄とが要求され、それが済んでから、これまで頑丈な閂で閉ざされていた扉がひとりでに開き、そして最後に、「主は日々にほむべきなら。我らに重荷を負わせ給えども、また助け給う」(詩篇六八の一九。ドイツ語聖書による。訳者)と言いうる時が来るのである。

 🌟🌟 民数記二三の二一〜二四。この状態は詩篇八四によく描かれている。

 🌟🌟🌟 ヘブル人への手紙四の九。ローマ人への手紙六の一四。「幸福にあっても歓呼せず、嵐に出会っても怯まず、避けがたいことを立派に耐える」云々というよく引用される詩句は、これと同じことを各人にまったく無造作に要求している。しかしそれを実行するには、この詩句を暗誦する以上の骨折りが必要である。こうした詩句の作者も、おそらく自分ではそれを実行出来なかったに違いない。ルカによる福音書一一の四六。

 🌟🌟🌟🌟 ダンテ「神曲」地獄界第四歌四〇ー四二行。エレミヤ書二九の一一。ヘブル人への手紙四の九。これはイザヤ書六二の四やパンヤン(「天路歴程」第八章、第二〇章)に言われている「配偶の地」である。けれども。この地に滞在することができるのは、ほんの僅かな間だけである。バイヨンのエリーザベトはその臨終に近い頃「私の気分は息吹にように軽やかです」と語っている。しかし、このような正しい人達は、彼らの国を不幸が襲いそうな時には、その前に外敵に死んでしまうということも、しばしば起こるものである。イザヤ書五七の一、列王記下二二の二〇。だが、これは本質的な意義を持つものではないことを付言しておかねばならない。なぜなら、最も偉大なな、最もすぐてた人々、すなわち、ダンテ、タウラー、アッシジでフランチェスコ、幾人かの使徒、いや、キリストその人も、その臨終の時に、このような快い気分を味わいはしなかった。したがって、太陽は輝きながら没しようと、雲に隠れて沈もうと、どちらでもよいのだ。いずれにしても、太陽は輝かしくまた昇ってくるのである。

 

 「若き日に千本マスト帆をあげて船出した湊に、わずかに残りし小舟に老の身を託して今ひそかに帰りくる🌟」いうのであってはいけない。いや、むしろ、自分が成したこと、苦しんだことの一切に感謝し、神の恵みによって到達し得たものに満足し、これから先の一層大きな、一層すぐれた活動を安心して展望しながら、臨終の床につく前に、今すべに生涯の清算を終わって、彼にとってはまださほど重要でない単なる来世への移行を、ある老詩人の言葉のように、心静かに待つというのでなくてはならない。

 

  私の道はいま終わろうとする、おお、現世よ、お前のことはも  う心にかからない、

  天国こそさらに懐かしい、努力してそこへ入って行かねばならぬ。

  旅路もすでに終えたので、わが負う荷はさほど重くない、

  神の平和と恵みに包まれて、悦びながら進み行く。

 

 🌟 シラーの短詩「期待と実現」。彼の気高い人間主義が、結局このように「破産」するということは、それが人生の最上の道案内ではないことを、それを信奉する全ての人達にはっきりと示している。実際、あらゆる哲学は、守れもしないことを約束する。ただ真のキリスト教だけが、約束する全ての事を文字通り果たすのである。キリスト教は決していつまでも君に次のような言葉を言わせてばかりはないであろう。

 「夕べになり朝となった、私は決して一度も立ち止まりはしない、

  しかし私の求めるもの、願うものは、いつまでも隠れて現れない。」

 

 

              四 

 

 『老年は、たいてい突然始めるものである。それも、何か特別の出来事、たとえば病気🌟などと共にやって来ることが多い。これは、軍隊で「前哨」と呼んでいるものと同じ役目を果たすのである。なお老年になると、今まで隠されていたいろいろな人間の間の相違や、彼らの生活の結果の違いなども、やはり突然現れてくることが多い。ある者は前に倍する貪欲さで人生の秋の終りの果実を享楽しようとして、老年の浅ましい姿を曝け出すことも少なくないし、またある者は、浮世のものごと一切を無常と観じて厭世的欲望に身を委ねることもあるが、このような絶望はいつも人類の大歓楽時代の終わりにやって来るものだ🌟🌟。ところが、もっと真面目な人達は、年老いた今初めて次のように言うのである。

 

  私は何処へ行くべきであろうか、

  私の心の奥深く、

  とわに変わるぬ者あらわれてから、

  この世の快楽はみな侘しく見える。

  私は白く塗られた偽りにも、

  世の味けない飲み物にも飽きた。

  私の空(から)になった水瓶を抱いて

  神の都よ、あなたの泉に行きたい。

 

 🌟 ヨハネによる福音書一一の四。

 🌟🌟 そうした絶望からいわゆる悔い改めの大運動が生まれる。たとえば、バレスク派に対抗するピアニョン派(狂熱家サウ“ォナロラの信奉者)、芸術に対する「死の舞路」、文学の方面では「アマウント」(オスカー・フォン・レートウ”ィツの叙事詩)とか、「キリスト教の真髄」(シャートーブリアンの著書)の類の感傷的敬虔がそうであるが、これらはいずれも長続きしない不健康なものである。このようなものが単に現実主義に対する反動にすぎないことを、まもなく我々は改めて体験するであろう。

 

 世の中には終日の楽々して過ごした者もいれば、無用な仕事に精根をつくした者もいる。こういう者も雇われてその日の仕事を終えれば、先に来て働いた人達と同じ賃金を受けることになる。これは仕事を与える主人の慈悲のおかげであるが、しかしこのことに対しては、今日でもなお多くの人々が不平を鳴らしている🌟。

 🌟 マタイによる福音書二〇の一〜一六。ルカにより福音書五の五。アンゲルス・ジレジィウスの歌「ああ我、汝を知ることかくも遅かりしとは」(同胞教会讃美歌第四八一番)。

  

 けれども、こうした内省がもっと早く行われて、第三期が精神の方向転換ということでなく、ただ第二期の生活の目標の結果であり、その完成であったなら、なお一層よいであろう。なぜなら、本当の人生の段階には、元来、ダンテの天国に似通ったところがあって、どの段階にも、一番下の段階さえも、最高の段階に属するものがすでに何程か含まれているので、より多くを渇仰しなくても、それに希望をかけているだけで、魂が満足させられるからである🌟。

 🌟 ところが、これとは反対に、この世の誤った野心は現在あるものに不満を抱かせるのである。ダンテ天上界第三歌七〇行以下のビッカルダの美しい言葉を参照されたい。』

 

 

 

          清秋記: