カール・ヒルティ、『幸福論②』・「キリスト教序説」二六九頁より: | 真田清秋のブログ

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 『実際、両親がその子供らに、または教会がその信者たちに、多くの極端な、不必要な命令を与えながら、それが実行されなくても至極気軽に見逃しているのも、やはりそれと同じことである。

 神の本当の命令はことごとく実行できるものであり、それを全て正確に、文字どおり従順に守ること、しかし「人間のこしらえた掟」は全てこれを軽んじて拒むこと、これ以外に、現代のキリスト教諸派が今や新しく蘇る道はないであろう。

 

 なおまた。苦難や禁欲を喜ぶ心の傾向も危険である。これは時として密かな名誉欲と結びつくことがあって、そういう時にはなおさら危険である🌟。この場合は、ただ、一つの悪魔が他のさらに手強い悪夢によって追い出されるだけである。人間は自分の命を投げ捨ててはならない。自分の中の諸々の力を漸次なし崩しに見殺しにするというような仕方で、それをしてもならない。ただ、肉体的快感を重んじ過ぎたり、それをあまりにものさばらせてはならないというだけである🌟🌟。

 🌟 わずか三十歳で世を去ったシエナの聖カタリナの「空しい誉れではなく、わが主の真の誉とお褒めとを!」という最高の言葉は、おそらく彼女が自分の弱さをどこに感じていたかを暗示するものであろう。アッシジの聖フランチェスコは、かねて自分の肉体を「わが兄弟なる驢馬」とよんでいたが、その臨終の床で、自分がこの兄弟をあまりにも酷く扱い過ぎたことを後悔した、と伝えられている。もちろん、人は偉大な善事のために、肉体の苦痛を忍ぶように命じられることもありうる。この場合は、それを忍ぶのが最高の召命である。しかし、こうした召命を自ら探し求め、無理に奪い取ることは許されない。そういうことをすれば、その召命の苦しさに耐えられないであろう。いずれの宗教的迫害の時代でも、少数の犠牲者がそれに耐え、他の人たちは耐えきれなかった理由も、おそらくそこにあるのである。

 🌟🌟 ローマ人への手紙一三の一四。肉体は、よく役にたつ、そしてよく待隅された召使であるべきで、主人であってはならないのである。

 

 この点でも、キリスト自らが、簡素な節度の、真似のできない手本である。しかも事情によっては、ほとんど贅沢なほどの敬意をさえ甘じて受けたので、明らかにそのために、文字どおりの禁欲を守りたがる使徒は、キリストに対する信仰を失ってしまったほどである🌟。どんなに信仰の進んだキリスト教徒でも、あくまで自然な人間らしい生き方をすべきであって、隠者や柱行者(柱頭に静坐した善行者)のような生活をしてはならない。そして人生の価値と使命とを、享楽にも、苦悩や禁欲にも求めず、もっぱら神の意志と委託に従うところの行いに求めなくてはならない。よく引用される言葉であるが、ブルームハルト(一七七九〜一八三八年、ドイツの牧師)は賢明にもこう言っている。ひとは二度転向しなければならぬ、一度は自然な生活から宗教生活へ、次には宗教的生活からふたたび自然な生活(それが正しいものである限り)へ戻らなければなぬ🌟🌟、と。しかし、初めの宗教生活があまりにも行き過ぎでなければ、時には一度で済むこともあろう。こうした二度の脱皮にあまり長く手間取り過ぎて、その間少しも人に愉快な感じを与えない者も少なくないのである。

 🌟 マルコによる福音書一四の七〜一〇、ヨハネによる福音書一二の四。

 🌟🌟 現代におけるこの最もすぐれた人物のすぐれた点は、明らかに、彼のキリスト教の、まさにこのような自然さと純粋さとにあったのであって、決してフランス語の「エスプリ」だの、ドイツ語の「ガイストライヒ」の意味での才気ではなかった。彼の説教はそういうものとはおよそ縁遠いものであり、だからこそあれほど強くもあったのだ。

 

 以上述べた多くのものは、向上せんとして努める人間の誠の幸福を妨げ、真のキリスト教に入ることを詐欺る敵であるが、こうした全ての敵から最後に彼を自由になしうるものは、決して彼みずからの力ではない🌟。いわゆる、「古きアダム」は、この言葉が言われた当時と同じように、今日でも、「若きメランヒトン🌟🌟にとってはあまりにも手強すぎる」のである。その人が、たとえどんなに立派な意図をいだいたとしても、神自らが遣わし給うた助力者(キリスト)の助けを求めようとしない限り、そいうい意図もほとんど全く役に立たないのである。しかし助力者の方でも、その人が助けてもらうために自分の意志を完全に捧げ尽くさないなら、助けてやることも出来ないのだ。このように自分の意志を捧げ尽くすことは、自然的・主我的な存在の枷から己を解放するという事業において、人間みずからがなすべき務めなのである。その他の一切は神がその人の上になしたもうであろう🌟🌟🌟。

 🌟 申命記八の一七・一八。ヨシュア記二四の一九。

 🌟🌟 メランヒトン(1497〜一五六〇年) ドイツ人文主義者、ルターの福音主義を支持して、その宗教改革運動を助けた。(訳者)

 🌟🌟🌟 申命記五の二九、六の四。

 

 このことを、特にダンテは「神曲」浄罪界二一歌(五八ー六九行)において非常はっきりと説いている。一つの魂がついに浄罪の山のさらに高所へと登ってゆく時、その山が悦びに震える様を次のような詩句で叙している。

 

 魂が新たな清純と美にありながら、

 さらに高められたいとの意志を知る時、山はかくもうち震う。

 この悦びのどよめきはさらに魂の向上を促す、

 ただこの意志のみがよく清純の証しとなる。

 意志は自由に魂を促し前進の用意をさせ、

 魂に成長の確かな力を与える。

 初め魂はそうありたいと願いはしたが、罪ある者は

 神の義によって尚も苦しまねばならぬと知り、

 長い間好んで苦悩を願い求めた。

 私はこの苦しみの中にあること五百年、

 今やまさに、高きに向かって進まんとする意志が

 ようやくに解き放たれたのを覚える。

       (主としてヒルティの引用したドイツ訳による。訳者)

 

 自分の内的生活を知りぬいている者なら誰でも、自分の中の様々な欲望は当然数々の苦しみをもたらすもにだと十分わかっていながらも、初め長い間、善を求める一部の意志がそうした欲望と戦い続けねばなかったことを認めるであろう。それにもかかわらず、魂が欲望に打ち勝ち得ないならば、そうである限り、魂はまさに根本において、これまでの状態にとどまることを望んでいるのである。だが、それでもなお、魂が自由になりたいとの衝動を持ち続けるならば、魂はついに前進せんとする十分な意志を自分のうちに見出すような麗しい日が、神の恵みによって到来する。その時、魂は直ちに自由となり、後から思えば、どうしてあんなに長い間ためらっていられたか分からないくらいである🌟。

 🌟 このような意志の解放に、神の意志がどれぐらい重要な関わりを持つかということを、ここでストア哲学的なくだくだしい理屈でもって詮索しようとは思わない。いっそう正直にいうならば、人間は、いずれにしても、自分の意志を自由になることを祈願しなければならないのである。

 

 それでも、こうした十分な意志が生ずるのを手をこまねいて待っているのは、間違いであろう。キリスト教も、多くの他の事柄と同様に、研究によってではなく、それを試してみることによって初めて学ぶことができるのだ。それとは反対に、キリスト教について無駄な論議を重ねることは、その精神に最も甚だしく背くものである。また、いわゆる学問的に把握しようとしても、キリスト教は一層わかりにくい、疑わしいものになりがちである。それをすることは、他のあらゆる学問と何ら変わりない一個の「学問」であって、そうした研究を使命とする人達に任せてしまってさしつかえない、だいたい、そういう学問は、人の内的進歩に何ら大きな貢献をなすものではない🌟。疑いもなくキリスト教は、福音書に聖霊と呼ばれているあの霊を通じてのみ、完全に理解さられるである。聖霊がどんなものであるか、我々はそれを知らない。我々が知りうるのはただ、それが極めて現実的な現象であって、我々の生活にその作用がまざまざと現れ、世間で最も大切な宝とみなされているもの、欠くとの出来ない享楽と思われている一切のものに対して、次第しだいに我々を無関心にする力を持つものだということである🌟🌟。我々はこうした召命を受けているのである。果たしてそれが達成されうるか、前には確かに疑わしく思われてたこともあるが、今やキリスト教の信仰によってそれが可能となったのである🌟🌟🌟。と言っても、キリスト教をただ「面白い」と思ったり、それも往々にして、人間およびその天性の力に関するキリスト教本来の冷静な見解よりもむしろその誇張された見解の方を面白いと思ったりするだけで、済むものではない。何よりもまず、それを実地に始めなければならない、そうすれば、信仰の進歩はまったく自ずからにして生ずるのである🌟🌟🌟🌟。

 🌟 テモテへの第一の手紙六〇の四・五。テモテへの第二の手紙二の二三・四。ローマ人への手紙七の七〜一三、一〇の四。コリント人への第二の手紙一の二二、三の四、六の一六。 

 🌟🌟 マルコによる福音書一六の一七ー二〇。使徒行伝二の三、八の一七、一〇の四四、一一の一五、一六の七、一九の二・六、二〇の二三。ローマ人への手紙八の九・一四・一六。コリント人への第一の手紙一二の三・八ー十一・二八。

 🌟🌟🌟 ガラテヤ人への手紙5の13。ヨシュア記二四の一九・二三、ローマ人への手紙八の一三。 

 🌟🌟🌟🌟 イザヤ書三〇の二一。エゼキエル書三六の二七。エリーザベト・フォン・バイロンはこれについて大変いい規則を設けている。「人は自分の弱さに気づいたら、それをいつまでもじっと見つめていないで、急いで神に心を向けねばなりません。」なお言葉を続けてこうも言っている、「そうしたら私は、神が現存するという事が、そも恵の初めであり、原因であること、しかも、その恵みは無限の効果と力とを持つことを悟りました。私は、生得のあらゆる力や、努力して得たすべての力を持ってなしうるよりもさらに多くのことを、神においてなし得るのを知りました。」

 

 だから魂よ、君は、ありふれて世俗的生活の、とうてい満足をうる見込みのない迷路から抜け出して、あらゆる幸福への道のうちこの最も簡単にして最上の道に辿り着きながら、なおもためらって、キリスト教の玄関に実際に入りかねている。ーーそれはともかく、君がまだ十分に信頼を寄せ難い人々の群れがそこに蠢いている姿を見るからであろうがーーしかしそれで もなお、君は決心を固めて、思い切って入り給え。どれほども立たないうちに、思い切ってそれをしただけの値打ちがあることだけは、少なくともわかるに違いない。この道からふたたび引き返す人は稀であり、また、この道を終わりまで歩き通した者で、一生を棒に振ったとか、そればかりか、あまりにも苦しい、全く耐え難い生活であったなどと、愚痴ばかりこぼした者は、幾千年来未だ一人もなかったのである。

 ところが、幸福へ到着しようとした他の様々な道を歩いだ者で、こんなに嘆き悲しんでいない者が一体どれだけいるだろうか🌟。

 🌟 そこれ彼らはまもなく、今度は是が非でも平安を求めることだろう。しかし大抵は、まだ当分正しい道においてそれを求めることは出来ないだろう。ガルボル(一八五一〜一九二四年ノルウェーの作家)の「疲れた魂」や「平和」を参照せられよ。イザヤ書八の二一・二二。六五の八ー二四。マタイによる福音書一一の二八。ヨハネによる福音書五の四〇、六の三五。

 

 総じて人間の魂には、たとえそれが超感覚的事実の信仰にはっきり心を向けている人の場合でさえも、なお時として、自分の考えや希望全体について真剣な疑念が起こることがるということは、いやしくも真実を告白しようと思う人なら誰でも否定し得ないことだ。そしてまた、他人が時折陥るこうした疑惑を激しく非難するような者は、決して信仰堅固な人ではないということも事実である。そのような人は往々、他人を糾弾する熱意によって。むしろ自分の心にきざす疑念を強いて押さえつけようとするのに過ぎない場合がある。けれども、そうした懐疑的瞬間においてもなお、次のことだけは疑うわけにはいかない。すなわち、現世および来世にわたる大問題について、キリスト教以上の確信性を有するものはどこにも存在しないこと🌟、そしてまた、「自然科学」の往々にしてまた極めて不確実な個々の結論に満足して、それ以上の諸問題、たとえば全値として見た万物の関連とか、人類の生活と繁栄とを強く左右する道徳的世界法則などについての問題を、簡単に人類の思想の中から追放すればそれでもう十分だと言い訳にはいかないことは、確かである。このようなやり方は、決して長い間にわたって成功するものではない。いや、むしろ、このような瑣末な目標に全てを局限する単なる現実主義の時代の後には必ず、また浅薄になりきれない人々や、官能的世界にすっかり溺れてしまえない人達の心に、改めて、キリスト教の真偽を確かめたいという衝動が抑え難い強烈な力で沸き起こってくるに違いない。つまり、キリスト教こそ人間を幸福にする誠の、唯一の真理だというその高い自負が、果たして正当であるか、また、それがどこまで正当であるか、を検討しようというわけである🌟🌟。

 

 🌟 我々は徐々に、このようにすでに一度熱意によって乗り越えた疑惑にあまり多く注意を向けなくて済むようにならねばならぬ。「光に向かって進め、そうすれば影はあなたの後ろに落ちるであろう。」キリスト教会は、無論初期には、今よりはるかに単純なものであった。力を授かることや、自分で見たり体験した事の証人となることが、教会のなすべきすべてであった。使徒行伝一の八。ところが、そういうものから、今ではとっくに、一つの教義、いや、一つの学問が出来上がってしまっている。しかも、それを説く人は、そのためにそれを信ずる必要はなく、他の人々はその真理を自ら経験することなしにその教えを信じなくてはならなくなった。こうなっては、初めからもう一度やり直すほかはない。信仰というものは、心情と意志とを神に委ねさえすれば、全く容易いものであり、そうでなければ信仰は不可能である。多くの人々が「信じ得ない」ということに秘密は、もっぱらここにある。

 🌟🌟 精神生活、少なくともゲルマン諸民族の精神生活は、現世紀のうちに、必ずこうした方向に進むに違いない。それも彼らが、単なる物質文明の進歩はおよそ作り出しうる限りの幸福について、これまでに増して徹底的に幻滅を感じた後に。

 

 読者諸君よ、君たちはまた、そのような衝動を多かれ少なかれ感じているであろう。さもなければ、同じようにその衝動から生まれたこの本を手にすることとはなかったであろう。いずれにしても、そうした衝動を手軽に追い払ってはならない。それ畢竟、君の本質のより良き部分から発しているのであるから。

 むしろ、次のような助言を受け容れたまえ。すなわち、キリスト教の序説、つまりキリスト教が自明だとしているその前提条件を、いっそう綿密に吟味し給え。そして、君がある限りの力でその条件に沿うて生きようと決心する事が出来たならば、その上で初めて、キリスト教の教義を学び給え。たしかに、これと反対の行き方が世間普通のものであり、我々の学校や教会の宗教教育で一般に指示される道もまたそうである。しかし、そうした道を歩けば、時としてなお「道に獅子」が待ち伏せていることもあるが、この論文で勧められた小径には、そんような恐ろしいものは出てこないのdらる🌟。

 🌟 イザヤ書三五の八・九。ルカによる福音書一八の一八ー三〇。

 

 いうまでもなく君は、常に決意する用意を怠ってはならないだろう。なぜなら、ただ「勝利を得る者のみが、これらのものを受け継ぐであろう」からだ。不決断の人🌟は、全くの無信仰者と同じく、どんなに都合のよくいった場合でも、その人格的生命の没落が、近くかつ確実に、予期されるだけである。

 🌟 ヨハネ黙示録二の一一、二一の三ー八、二二の一七。』

 

 

 

 

 

               清秋記: