カール・ヒルティ、『幸福論②』・「超越的希望」226頁より: | 真田清秋のブログ

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 『このように変化した来世の生活については、その詳しいことは全然われわれにはわからない🌟。ことに、来世に生き続ける人々が、どの程度まで現世の状態についての意識を持つかということ、これは来世で生き続ける以上論理的に当然であって、さもなければ、決していのちの継続ではないわけだが、しかし、このことも我々にはやはり分からない。さらに、来世の人々が、この世に残っている家族の人達と、どの程度に繋がりを維持できるかということも分からない🌟🌟。しかし、そういうことが仮に我々に啓示される場合があったとしても🌟🌟🌟、現在の我々の知覚の器官ではそれを捉えることができないだろう。同様にまた、来世における「永遠の栄光」についても人間は好んで空想を欲しいままにしてきたが、それについてのあらゆる描写は、全くあり得ない比喩、あるいは、いずれにせよ極めて不完全な比喩を借りて表現された空想以上の何物でもないのである🌟🌟🌟🌟。それは丁度、我々の現在の平安の観念では到底間に合いそうもない「永遠の平安」についての想像と同じである。しかし来世の有様はーー我々はそう期待してよいーー人間のあらゆる理解をはるかに超えて、上述のすべての比喩がさながらに描いているよりも、いっそう偉大なものでありうるのである。しかしながら、来世の有様を理解し把握しうる者は、ただ、すでにその精神的本質がそれに適合し、時と共に滅びてゆく一切のものから十分に浄められている人に限られるということは、まったく確かであろう。すなわち、言葉を変えて言えば、もしも一般に万人にとって来世が存在し、しかも、この世で無価値なもののために生き、その能力を永遠なものを把握するために十分発達せしめることをしなかった人達まで🌟🌟🌟🌟🌟が、死によって無に帰することがないとしたら、必ずやそれぞれの人が、その人の本質的に属する要素の中に生き続けるであろうし、そしてその要素は、今や反対の性向に妨げられることなく、十二分にそれ自身を伸ばし切ることになるであろう。

 🌟 来世の様相について、我々がもっている最も明白な証言は、上述のキリスト自らの言葉(ルカによる福音書二〇の三六)であるが、なおマタイによる福音書二一の三〇以下にもそれは見出される。およそ福音書が

単なる偶像の図像でないならば、これまた確実な真理である。けれども、それ以上のことを知るのは不必要であり、また誰にもできないことであろう。キリストの最後も言葉は「父よ、私の霊を御手に委ねます」であった。(ルカによる福音書三二の四六)。キリストにはそれで十分だったのだ。我々もそれで満足しなければならない。同様に、世界の滅亡の時とその有様について、これまでしばしば行われた憶測も、マタイによる福音書二四の三六・四四。マルコによる福音書一三の三二のような明白な箇所に照らして見れば、無駄な饒舌に過ぎない。同じように「キリスト再臨」の問題も、まず第一に、それを目のあたり見るその時代の人々にとって重大なことであり、次に、ユダヤ人にとっても重大である。というのは、世界史上におけるユダヤ人のキリスト教に対する抗争は、我々のために再臨する救世主が彼らにとってもまたそうであれば、それでおそらく解決するだろうから。再臨の問題については、マルコによる福音書九の11ー13、マタイによる福音書一一の一四、ヨハネによる福音書一九の三七、ヨハネの黙示録一の七、ぜカリア書一二の一〇を参照せよ。いずれにしても、我々はこの問題と取り組むよりも、なすべきさらに重要なことがあるのである。こういう問題は、すでに多くの人の頭を混乱させ。あるいは少なくとも、過度にかつ無駄に骨を折らせてきた。

 🌟🌟 ルカによる福音書一六の一九以下の貧しいラザロについての寓話は、むしろ、このことが可能であるということを物語るものであろう。同様な出来事の注目すべき報告の一つは、ドミニコ会士タウラーの述べているものであって、普通彼の説教集冒頭におかれている。プラトンもまた、その「共和国」第十三章に、冥府から帰ってきた人の物語をしるしている。同様に、ツュンデルの著「ブルームハルト伝」(一八八二年チューリヒ、第三版二五一頁)にも、一度自殺した婦人が再びこの世に帰ってきたという現代の実例が報告されている。

 🌟🌟🌟 コリント人への第二の手紙一二の四。すべてこのような「まぼろし」は、疑いもなく確かに起こりうるものだが、それを我の現代の生活様式に合わせて言おうとすると、何か言い表しにくいものがある。最も信ずるに足る、そして最も美しい幻の一つは、ユング=シュティリングの自伝の第一部に記されている老エーベルハルト・ユングが見たものである。

 🌟🌟🌟🌟 ミルトンの「失楽園」に出てくる堕落した天使たちの思念についての叙述や、またはワルハラ(北欧神話の天国、戦没勇士の天堂)でドイツの英雄たちが毎日戦ったり死んだりしているという、いくぶん粗野な想像でさえ、年がら年じゅう小天使がただ竪琴ばかり弾いている天国についての想像よりもはるかに雄大だと思われる。なお、こうした無為な天使は、聖書の物語にはほんの稀にしか出てこないことも、大いに注目に値する。すでにこの地上において、絶えず神のそば近くにあること、神秘家たちのいわゆる「神を直観する」ことは、幸福になるのに必要な無くては叶わぬ根本的気分であるが、しかし、それは常に何らかの行動に結びついたものである。我々としては、文字通りの「永遠の祈り」というものを信じない。そういうことは、活動するように造られている人間の本性に相応しくないし、またそれを決して満足させ得ない。来世のさらに高い生存の段階においても、なおそうである。「ブース夫人伝」第一巻四五一頁にも、「私は、自分が竪琴を奏でながら、天国の片隅にじっとさせられているなどということは信じません。そんなことがお好きな人にやってもらうことにします」と述べてある。

 🌟🌟🌟🌟🌟 これこそ最大の問題である。と同時に、全福音書の中で、おそらくキリスト自らの言葉が、彼の他の言葉に比べて、ある曖昧さを残しているただ一つの点である。ルカによる福音書二〇の三五に「しかし、かの世に入って死人達の中から復活にあずかるに相応しい者達は」とあるのを参照されたい。もっぱら人間的に言えば、来世においてさらに高い生活を求めるか、それとも、現世において無価値なことのため、滅びに委ねられたことにために、目的もなくいたずらに生涯を浪費した自然の結果として実際に死んでしまうか、そのいずれを採るか、その選択の自由が人間に与えられているとするのが、論理的に最も正しい解釈であり、これだけが人生の多くの謎をすっかり納得できるように解いてくれるといえよう。過去に死んだ数限りない人間が、ことごとく住んでいる未来の世界などというものを考えるのは、まったく想像を超えたことである。これについてある聡明な詩篇注解者は次のように言っている、「人は地上の生活において自分の精神的道徳的目的を達成し、自分の肉体的・現世的な能力をすっかり目的のための手段として用い尽くすことによってのみ、自分の霊的本質を滅びの中から救い出し、死ぬると共に永遠の不滅に入るのである。

 福音書の中でキリストが来世について述べている箇所は次の通りである。マタイによる福音書七の一四・二一、一〇の二八、一一の二四、一二の四〇ー四二、一三の四三、一六の一九・二七、一七の二三、十八の三・九・一〇・一八、一九の二八・二九、二〇の二三、二一の三一、二二の一三、二四の三一、二五の三二ー四六、二七の五三、二八。マルコによる福音書三の二九、六の一一、八の三八、九の一〇・四五、一〇の二一・三四、一三の二六、一四の六二、一六。ルカによる福音書七の一四、九の二三、一〇の二〇、一三の二八、一六の九、一七の三四、一八の三〇、二一の一七、二二の三〇、二三の四三、二四。ヨハネによる福音書三の五・三六、五の二一、七の三四、八、一一の二五、二六。一四の二以下、十七の二・三・二四、二〇、二一。最も確実な保証は次の箇所に含まれている。マタイによる福音書二二の二九ー三二、マルコによる福音書一二の一四ー二七。ルカによる福音書一六の二二ー三一、二〇の三四ー三七。ヨハネによる福音書五の二四ー二九、六の四〇・五四・五八、八の五一、一一の二五・二六、一四の二・一九。なお次の句も参照されたい。コリント人への第一の手紙一五の五ー一八、コリント人への第二の手紙五の一、およびローマ人への手紙八の一一。』

 

            清秋記: