カール・ヒルティ、『幸福論②』・「教養とは何か⭐️」150頁より: | 真田清秋のブログ

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 『イスラエルの王朝時代後期の人で、彼自身も一種の独学者だったと思われる一預言者が⭐️⭐️、その国民に向かって、やがてやって来るであろう新しい時代を予言してほぼ次のように言っている。

「主なる神は言われる。見よ、私が飢饉をこの国に送る日が来る。これはパンの飢饉ではなく、主の言葉を聞くことの飢饉である。この日には美しい乙女も若い男も渇きのために気を失う。ダンの神、べエルシバの道に頼る者どもは必ず倒れる。再び起き上がることはない。」

 その当時、ダンの神とか「べエルシバの道」とかが、何を意味したか、十分精確に調べることはできないが、いずれもここでは深く詮索せずともよいであろう。ただ、主なる神の教えと対照的に用いられているところを見ても、それらのものがその時代の教養の要素であって、後にそれが不十分な教えであることが暴露するだろうということは明らかである。そしてそのことは、キリスト教時代の初期に実際に起こったのである⭐️⭐️⭐️。

 

 ⭐️ この論文は、もともと若い商人たちのクラブで行われた講演によるものだ。今日では、他の社会よりも、かえってこういう人々の方が、強く一般的教養を求めることが多い。だから、こうした特別な目的の痕跡が、この論文の現在の形にもまだ幾らか残っているのである。

 ⭐️⭐️ アモス書八の11ー14。(ヒルティの引用は少し修正されている。訳者注)

 ⭐️⭐️⭐️ ルカによる福音書第三章。在来のあらゆる人間の知恵に対するこのような絶望がすでに民衆の広い範囲に及んでいたからこそ、キリスト教は強く人心を支配することができたのだ。ただ僧俗両界の高位者たちだけが、自分らの権威と世間的利益を考慮して、また民衆から離れていたにすぎない(マタイによる福音書二七の四二。マルコによる福音書一二の七。ヨハネによる福音書七の四七、九の三九ー四一。ルカによる福音書二三の一一参照)。宗教改革の時代にも同じようなことがあった。そうした「飢饉」という前段階がなければ、どんな新しい思想も力を発揮することができない。

 

 今日一般によく知られているさまざまの現象が、こういう昔の、今では半ば忘れられてしまった言葉を正当にも再び思い出させるのである。

 一方では、なるべく手っ取り早く獲得できる教養によって、権力ある地位に登りたいという、ほとんどがむしゃらな努力が諸国民に広く行き渡っている。彼らの考え方によれば、権力はこうした教養と結びついているのである。また、たいていの人の解釈では、それはある種の知識の獲得と結びついているのである⭐️。

 ⭐️ 今日、世間の人々は学問を求めている。しかし彼らの必要なものは、おそらく学問ではなく、知恵である。彼は十八世紀の終わり頃に比べると、はるかに知恵から遠ざかってしまった。

 

 ところが、従来の教養ある人々の上層では、逆に、かような知識がこれまでに達した、また今後達しうべき結果について、一種の絶望感が広がって来ている。それは既に、一人の有名な自然科学者(デュ・ボア・レイモン)が“ignoramus ignorabimus "(われわれは知らない、また知らないであろう)という周知の言葉で、はっきり言明したところであり⭐️、またあらゆる学問がますます専門化する傾向にそれが実際に現れている。というのは、この専門家が意味するところは、結局、次のようなことに他ならないからだ。すなわち、もはや普遍的な学問などはあり得ない。まして、人間のあらゆる能力や思考を理解しようとする一般的教養というものはない。ただ在るのは、個々の専門的知識だけである。そしてその知識の彼方には、どんなに深い学問を積んだ専門家にも、ズブの素人と同様に、無知の深淵が大きく口を開いている、というのである。

 ⭐️ 教養ある人々のさらに一層悪い印は、。ニイチェのいわゆる「支配者の権利」の。獣的な傲慢である。これはもはや野獣に近いものであるが、それにもかかわらず、今日教養ある連中の間にしばしば存在するのである。

 

 このような時代的前兆のもとに成長しつつある文明諸国の若い世代の間には、その上なお、一種の肉体的および精神的疲労が濃くなっている。それを見ると、近代教育の全体が恐らく間違った道を進んでいるという疑いすら起こってくる。すなわち、近代教育は一生学問をし続けるほどの心身の力や喜びを生み出す代わりに、かえってそのような全能力をすっかり鈍らせ、葬り去って、あまりにも弱い体質の神経質な世代を育て上げるのではないかと疑われる。もしもこのような世代がどこかの健康な野蠻的風潮の攻撃を受けたとしたら、もはやそれに対抗できないだろう。それはちょうど、かつて上部は燦然と輝きながらも、同じく分化の爛熟に病んだギリシャやローマの世俗的教養がそうであったのと同様に⭐️。

 ⭐️ 道徳的英知や意志という力の育成は、今日の学校では、かえって昔よりなおざりにされている。これは古典主義が前よりも顧みられなくなり、いわゆる実科の犠牲にされて以来のことである。こういう実科の学修は性格の形成にまるで影響を与えないものである。

 

 ここでわれわれは、早速われわれの問題の根底に触れてくる。以上のことからして、およそ教養が有益にして望ましいものだというのなら、それは知識、つまり専門学識⭐️より以上のもの、あるいは、それとは自ずから別個のものと、どうしても解釈せざるを得なくなる。すなわち、一般的教養の最大の成果は、各人の人格を健全に、かつ力強く発達させて、豊かにして完き、精神的に満ち足りた人間生活を送らせることでなくてはならない。そのことなしには、一般的教養は個人のためにも、また国家のためにも、さして重要な価値はないであろう。

 ⭐️ 学識はもっぱら、教養を推定させる点で意義がある。だが、そうした推定は、常に、当たるとは限らない。そに人自身の専門において教養を欠く例さえある。博学な神学者でありながら、キリスト教の本質についてはまるで何にもわかっていない人や、有名な法律学者で正義感を全く欠く人や、才気ある哲学者で真の人生の知恵を持たぬ人もいた。こういう人達に教育される青年こそいい災難である。

 

 もしも教養がそうしたことを成し遂げ得ないならば、いずれにしても教養は、長い間それに寄せられ期待に背くことになる。そうなれば、われわれ現代のヨーロッパ人にも、おそらく、人類がすでに幾度となく経験したような時代が迫って来るであろう。すなわち、それは高度の文明を持つ諸民族が、単に体力と精神的活気と独創力にまさるだけの未開人に征服される時代であり、あるいは、特に、あまりにも洗練された共和国が、ある個人の強固な意志によって行われた攻撃の重圧に坑しかねた時代である。

 それだから、「教養とは何か」という問題は、今日われわれの全時代の生存に関わる問題であり、また特にわれわれの国家形態や、われわれの祖国の重大な問題でもある。』

 

              一

 

 非常に多くの意味をもち、そのために誤解されがちな「教養」(Bildung )という言葉を、われわれはまず語源的に、字義通りに解釈しなければならない。すなわち、教養とは、形のない生のままの状態を、それが可能な限り最上のものへ発展した状態、あるいは少なくともそれに向かって妨げなく成長しつつある状態に仕上げることをいうのである。

 人間はすべてその成長の初めにおいては、なまの材料である。この素材が、一部にさまざまな作用を持つ生命そのものの形成力によって、また一部は、人間の手や知恵によって、初めて真の人間像に、あるいは芸術的完成品にまで仕上げらるべきものである。

 とこらが、下手な彫刻家は自分に任された石を刻み損なって、本当の芸術品などはもはや作れないほど石を台無しにしたり、または、石をあまりにも繊細の刻みすぎて、彫刻として欠くべからざる重量感や外部的影響に対する抵抗力を無くすることがあるが、それと同時に、人間形成の技術においても、誤ったいびつな教養や、あまりにも洗練された行きすぎた教養がしばしば問題になるのは、われわれが日頃経験する悲しむべき事実である。

 人間を損なわない、人間に有益な真の教養には、根本的に三つのことが必要だと思われる。まず第一に、生来の官能性と生来の利己主義とをより高い関心によって克服すること、第二は、肉体と精神の諸能力の健全な均斉のとれた発達、第三は、正しい哲学的・宗教的人生観である。この三つのうちのどの一つが欠けても、その人の持つ何らかの素質が萎縮して、十分の発達を遂げ得ないのである。』

 

              

                                清秋記: