カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」144頁より: | 真田清秋のブログ

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 『女性が概して結婚したがるのは納得できる。なぜなら、よい結婚生活に入ることのみが、彼女の内なるすべての力を自分で展ばす機会を与えてくれるからだ。とこらが、女性のうちで、いち早く自己防御の確実な足場を築くことのできる利己的な女の方が、無限の愛情、誠実、献身、精神と生命を、一時謝って憧れた⭐️いかがわしい男のために浪費する善良な女性よりも、かえって幸運を掴むことが多いという事実は、人生の最も暗い経験の一つであって、これこそ、とりわけ神の正義を疑わせるものであろう。それだから女性は、自分よりもはっきり身分の低い男と結婚したり、全然教養のない家庭へ嫁いではならない。また道徳的に非難の余地を残すような男で、ケチ臭くて利己的な男⭐️⭐️、あるいは気立のよくない男と結婚してはならない。また通例、別の地方の男や国籍の違った男とも結婚しない方がよい。これと反対に、真面目に向上しようとする男子にとっては、身分のある高尚な女性と結婚するのが、急速に前進するための最適の方法であろう。

 ⭐️ 時にはそうでないこともある。しかし、その場合、相手の男に良くなる力があると信じるわけだが、そのためには、彼女自身もっと違った性格を持ち、初めからまったく別の手段を用いねばならないだろう。世には、一般に信じられ、見られるよりも、はるかに多くの不幸な結婚がある。そういう結婚生活の大部分は、まず第一に、そして主に、男に責任がある。ところが、多くの娘たちが、もしかしたら恐るべき奴隷状態になるかも知れない夫婦関係にさっさと入っていく呑気さには、まったくぞっとさせられるものがある。

 ⭐️⭐️ 悪い人間は、卑しい人間よりも結婚生活によって改善されやすい。卑しい人間は気高い婦人を絶えず自分の水準にまで引き下げようとするだろう。さもなければ彼女のそばにいたたまれないからだ。これについては、「ブース夫人伝」第二巻三七二頁参照。

 

 なおまた、結婚生活において静かに尊敬や友情を求め、かつ見出すのと、熱烈な愛情を求めるのと、そのいずれがよりよい結婚といえるのかは、常に議論のつきないところであろう。我々は、一般的規則という意味では、前者に賛成する。しかしーー後者を知らないものは、人生が何であるかを知らない人である。

 

 自分と一番近くにある誠実で聡明な女たち、たとえば妻、姉妹、娘、なかでも祖母や孫娘などとの私心を離れた正しい交わりは、疑いもなくこの人生における最高の、最も微妙にして純粋な喜びの一つであって、さまなければ埋もれたままになるであろう我々の内なる諸々の性質を完成させるものである。結婚は常に幸福だとばかりは言えないものだが、しかしいずれにしても、老いた独身者は、結婚すれば人間としてあるいは成ったかも知れず、また成ったはずのものになっていないことは確かである。

 

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 親愛なる諸君よ、一般に、人間知を求めるのに理論的方法に頼りすぎてはならない。人間知の大方は、ただ自分のーーしかもたいてい悲痛なーー経験によってのみ得られるものだ。ただ、何事も二度と経験すまいと決意したまえ。そういう人こそ賢明な人であって、少しも過ちを犯さない人は、たとえそのような人がいたとしても、賢明だとはいえない。

 また、人間知は、牡山羊と羊とを区別し⭐️、これからは羊だけを世話するということに役立つのであってはならない。それはむしろ、人に瞞されないため、また自分自身をよくするため、さらにまた、運命によって自分と接触するすべての人の性格を理解して、彼らをよりよくするためにも、役立つものでなくてはならない。というのは、人間の魂はそれぞれ無限の価値を持つものであって、努力を惜しまずこれを救済する値打ちがあるという考えを捨て去るならば、その人は既に危ない斜面に立つのであって、やがては完全な利己主義に落ちてしまうからである。

 ⭐️ 悪人と善人のたとえ。マタイによる福音書二五の三二参照。(訳者注)

 

 人間知の最後の言葉に、すべての人に対する愛でなければならぬ。愛だけが、人間をあるがままにしかも知りながら、しかも人間を見捨てずに済むのである。愛のない人間知は常に不幸であり、それは、いつの世を問わず多くの賢明な人達が陥った深い憂鬱の原因であった。かような場合、彼らは同じ人間仲間との交わりを諦めるか、それとも独善独裁に逃れるほかはなかった。なぜなら、一旦人間知を知ったからには、人間と交わるには結局二つの道しかないからである。すなわち、恐怖によるか、愛によるか、その中間の道はすべて誤魔化しである。

 

 ⭐️ たとえば、ごく最近の一詩人が次のような非常に悲しい詩を描いているが、そうした気分の根拠もやはりそうである。

 「平安こそこの世の幸福の最上のもの、

 浮世の宴は終わり、残るは苦き味のみ、

 バラの花は春の嵐に枯れ果てぬ。

 人を憎むは哀れなれど、人を愛するはさらに哀れなり。」

 

 だが、結局こういうものは真の人間知ではない。なぜなら、すべての人間の心は、いや、さらに一歩を進めて言えば、命ある一切のものは、愛に飢えているのだ。神でさえも、神みずからの本性であるこの生命の大法則に従うものだと言えるであろう。このことを信じない者は、根本的に人間を誤解するのである。ところが、神を愛することは、すなわち神において、神の力によって、すべての人間を愛することであって、実にこの神への愛こそは、口うるさく説かれるばかりでほとんど実行されない。いわゆる「人間愛」のただ一つの真実の根元であり、可能性である。神への愛がなければ、人間は人を愛する力が全くない。どんな人でも、利己心は常に、単なる人間的な愛情よりも優勢である。一体にこのようなことを信じうる人々のために、最後にこう言うこともできる。すなわち、神の霊はすべての人間を正確に

、しかもただひとり完全に、知り給う。だから、もし君が誰かを知りたいと思うならば、神の霊に尋ねるがよい、と。

 しかし、最後には恐怖に訴える人、または口先だけの愛を説く人は、このことについて修道士ヤコブス・デ・ベネディクティス⭐️の言葉に耳を貸すがよい、「私が隣人を愛していることを知るのは、その人から侮辱を受けた後でも、その前に劣らず彼を愛している時だけだ。なぜなら、侮辱を受けてから彼を前よりも愛さなくなったとしたら、私は前に彼を愛していたのではなくて、私を愛していたのだということを、証するだろうから。」

 ⭐️ 彼は通常、修道士ジャコボネ・ダ・トーディと呼ばれ、ボニファチウス八世の時代の有名な人。1306年没。

 

        ※             ※           ※

 

 疑いにさいなまされる時、

 人の魂は痛ましく揺れ動く。

 たとえ勇気はよりそうとも、

 心の色は混じり消えず。 

 白と黒、うち重なりて、

 カササギの羽のごと斑ら。

 明るき天国と、暗き地獄、

 二つながら人の心に宿る。

 (げには)心に誠なき者は、

 完き救いを失う。

 彼の心は黒く、悪だくみに満つ。

 されど誠ある人の心は白く、

 信仰に導かれて天に登る。』

 

 

                    清秋記: