カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」120頁 | 真田清秋のブログ

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 『心は至極いい人間なのに、いつも何か非難したり反対したりする習慣を持った者が世には少なくない。申し出された希望を叶えてやる場合でさえ、そうするのである⭐️。そこで相手はただ否(ノー)ばかりを聞かされるので、こんなやましい人間と付き合うよりも、もっと軽薄でも、もっと呑気にやっている社交家と付き合う方がましだと思うようになる。なおまた、人が間違っている場合でも、必ずしも反対する必要はない。時には、黙っている方がむしろ効果の上がることもあり、相手を怒らせずに済む。また時には、自説を主張しながらも、その実あまり本気でない者もいるが、その場合に、反対されると意固地になって、今更取り消しもならないようなことを言い出すものである。しかし、真理のために是非とも反対せざるを得ない時は、一回だけ反対すれば十分である。一旦双方の意見が明らかになり、確認された後に、なお限りなく論争することはまったく無駄である⭐️⭐️。

 ⭐️ たとえば、ある有名な国会議員は、普通の発言をする場合でも、いつも否(ノー)で始めたのを、私は知っている。

 ⭐️⭐️ 何かの専門に熱中している連中は、今日では沢山いるが、とりわけこういう連中とは論争しないがよい。また、その家の主治医でもないのに、母親に向かって、彼女の子供の鼻が醜いとか、歩き方が変だと言ったり、本職の批評家でもないのに、著述家に向かって、彼の本が退屈だなどと言ったりする必要は勿論ない。

 

 「自分の判断を人に信じてもらいたいと思う者は、それを冷ややかに、情熱をこめずに語るがよい」とは、私の思い違いでなければ、ショーペンハウァーの言葉である。その場合、「冷ややかに」と言うのはいささか言い過ぎである。しかしフランスでいう「語調(アクセント)を高めず話す」こと、つまり、最上級でもなく、原級でものを言うことは、いい習慣である。

「隣人については」と聖マッダレナ・ディ・バッツィ⭐️はこう教えている。「なるべく話題にしないがよい。なぜなら、いい噂から始めて、だいたい悪口で終わるから、私たちの隣人は、たとえてみれば、あまり度々手に取ると毀れがちなグラスのようなものである。」

 ⭐️ カルメル教団の修道女、フローレンスの名家の出、一五六六年生まれ。

 丁寧に反対することができるということは、交際上大切な術である⭐️。それにはとりわけ、反対する理由を詳しく挙げること、ただ便宜的に簡単に否(ノー)だけを言わずに、しっかりした論拠を示して相手を納得させるように努め、命令したりしないことが肝要である。このように自分の理性に訴えて話されると、誰でもそれを自分に対する尊敬の証拠だと思って満足し、時には向こうの否定的な結論についても、すっかり了解するものである。

 ⭐️ だから、イスラエルの格言にもこういう言葉がある。「人を罰する者の方が、媚び諂う者よりも、後では相手の好感を受けるだろう。」あるいは、「正しい者は親身になって私を殴(なぐ)るがよい。それは、私の頭に注ぐ香油(パルザス)のように、私を喜ばせるだろう。」詩篇一四一の五。箴言九の八。ものを拒絶しうるということは有益な術である。ただこの術は、それを心得ている人が、大抵、あまりにも好んで用いる嫌いがある。

 

 時には、不介入主義がかえってよく目的に叶うこともある。「考えてみましょう」とか、「それはよく考えてよいことです」といって、さしあたり好意を示しながらも決定を引き延ばしておくと、それで問題がすっかり解決する場合がよくある⭐️。その間に、相手の気が変わったり、一時はこうした意志が彼にとっては天国のように最高のものだったのに、やがてその関心が薄れたりするものである。

 ⭐️ だから、世慣れた人は、自分の反対意見をも一見賛成らしい風に装うものである。そうすると、その反対意見も、相手の提案に対する単なる小修正にしか見えないものだ。

 

 ただし、本来不正の事柄の場合は、いま述べたことは全然当てはまらない。そうした場合は、結局こちらがそれに同意するかも知れないとか、少なくともそれはありうることだと思っているとか、相手にそのような解釈させる余地を残してはならない。むしろ逆に「頭から反対」しなければならない⭐️。

 ⭐️ さもないと、最後に裏切る結果になる。マタイによる福音書二六の六九以下。もっとも、そういう裏切りによって相手の抵抗を削ぐのは、悪人の策略ではあるが。

 

 最もまずいやり方は、いやいやながら譲歩することである。これこそ二重の負けとなる。ところが、弱い人柄の場合、それが通例である。その上、ちょっとがなり立てたりして、自分の弱さを隠そうとする。

 人生にはどうでもいい事柄が実に限りなくあるものだが、そうしたことでは常に他人の意志に従うべきである。そうすれば楽に人生を送れるし、よい友達も造作なく出来る⭐️。

 ⭐️ そのような些細な事柄では、たとえ他人が正しくない場合でも、「彼らをつまずかせないために」配慮することは一つの大きな知恵である。マタイによる福音書一七の二七。ユダヤ法典に、「決して無愛想にものを与えるな。さもないと、手で与えたものを、顔付きで取り戻すことになる」という言葉がある。

 

 目下の人々と付き合うには、彼ら自身その地位を心得ている時は、ざっくばらんに、しかしいつも親切、丁寧にするのが一番よい。そうでない場合は、ラテン語の諺にあるように、「従うものは寛(みも)くし、驕れるものを挫く」がよい。

 

 大金持ちや非常に高貴な人たちと正しく交わることは、常に難しい。なぜなら、そういう交わりから生ずるのは、保護者対被保護者の関係であり、あるいは、すべて相手から頂戴するものに絶えず気を配る状態である。しかしそのような状態は、よき友人関係とは相容れないものだ。友情とは、あらゆる打算を離れて、喜んで与えたり、喜んで受け取ることから成り立つものである。その上、富貴はしばしば、人生の真の宝に対して人を無感覚にし、人間や人生についての見解を狭くする。

 

 ⭐️ ルカによる福音書七の二五・四四、八の一四、九の九・一〇、一二の二一・二九、一三の三二、一四の一二・一三、一九の五、二三の八ー十一。コリント人への第一の手紙七の二三。金持ちや高貴な人は、自分たちと交際する他人の利益だの、あるいは、他人がいつか自分たちの助けを求めるかも知れないという単なる可能性だのを、あまりにも高く見積もりすぎる。そこで、彼ら自身に示される他人のあらゆる好意についても、すでに残らず支払い済みだと考えていて、ありがたいとは思わない。だから金持ちに軽々しく物を贈ってはならない。その上、外部的な活動をするためにも、非常に高貴な人達と煩雑に交際することは、今日では、たいてい役に立たない。たとえば、われわれの祖国スイスの、また広く現代の、最も優れた人物の一人であるハインリッヒ・ゲルツァー(歴史的著述家)は、ただ著述家としてならば、もっと大きな活動をなしえたかも知れないのに、貴人との交際によって却ってそれを失ってしまった。イスラエルの諺はそれについてこう言っている、「権力者に用心せよ。彼らは自分の利益のためにのみ人を身辺に近づかせ、利益が得られる間は友人らしく見せかけるが、人が困難に陥った時には助けはしない。」ルカによる福音書一六の一五の言葉は、およそこういう場合に、原則的な標準となる。しかし、このような拒絶も丁寧にすべきである。

 

               清秋記: